修煉の美妙さ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年6月24日】私は20年以上も法輪大法を修煉していますが、内に向けて探し、自分を修めることの本当の意味を理解したのは最近のことです。今日は、私が経験した二つの出来事について同修と交流し、共に向上していきたいと思います。

 (一)

 2021年4月初旬のある日、私たちは学法グループで一緒に法を学びました。当時私が持参していた『轉法輪』の中に、直さなければならない文字が一つありましたので、学法後、私はつい、「家に帰ってから早く直さなければならないね」と言いました。

 それを聞いた同修のBさんが「これは些細なことではない、重視しなくちゃいけないのは、誰が作ったのかを調べるべきだ」と言い始めました。私は、「そんな話はやめてください、私が直せばいいので」と言いましたが、彼女は延々と続けました。その時、彼女は私が二度ほど怒鳴りつけるまで、止めませんでした。

 Bさんを叱った後、私自身はあまり深く考えていませんでした。というのも、私はいつも性格が率直で思ったことをざっくばらんに言っているので、態度が悪く、誰かを傷つけたのではないかと考えたことがなかったからです。学法グループから帰宅する時、同じ道を歩いていた同修のAさんに、「私にまだどんな不足があると思いますか?」と聞いてみました。Aさんから「あなたはせっかちで、興奮しがちだから、修めないといけない。同修に対して慈悲と、善の心を持つべきだ。同修が法に符合していないところがあれば、それを指摘すればいい。しかし穏やかな態度を取るべきで、大声で非難してはならない。慈悲と、善の念を持っていれば、例え彼女が受け入れなくても、あなたは法に符合しているでしょう」と言われ、私は「あなたの話は道理に適っている、自分をしっかり修めるべきでした」と答えました。

 翌日、Bさんに会いました。外見は普通に見えましたが、彼女の顔色は悪く、口数も少ないことに気づきました。私は自分が彼女を傷つけてしまったことに気づきました。師父がこの出来事を利用して、私の闘争心がまだ取り除かれていないことを悟らせておられるのではないでしょうか。同修にこれほど恥をかかせてしまいました。もし私が他の人にこんな風に扱われたらどう思うでしょうか。今回の事がどんな事であれ、顔を引きつらせて同修をしかりつけたことは間違っていました。考えれば考えるほど、自分があまりにもよく修煉できてないと感じました。間違ったことをしたのならば謝らなければなりません。さもなければ、どうして真に修めていると言えるでしょうか。

 謝りに行こうとした時、人心が出て来ました。私は彼女より10歳以上も年上なのに、彼女に無視されたらどうしよう? なんと面子のないことでしょう。しかし、法理上考えると、すべてのプライドと自尊心を捨てて、法が求める通りに行ない、大法弟子の基準を満たさなければいけないと思いました。彼女が私をどう扱うかについては、それは彼女の問題であり、私が多く考える必要はありません。まるで真相を伝えて人を救うように、私たちが相手に伝える時、相手が受け入れるかどうかは、相手の選択です。これらが分かってから、小雨の中、私は同修の家に謝りに行きました。私は、「申し訳なかったです」と言いました。Bさんは、私を温かく迎えてくれてました。「みんな同修だから、何でもないです、何でもないです!」と何度も言ってくれました。同修がこれほど高い境地であることをみて、私は恥ずかしいと思うと同時に、大変安らかな気持ちになりました。

 同修の家から帰る時リラックスできて、自転車に乗っていると誰かに押されているような気がして、心の中に言葉で言えない素晴らしい感覚が湧いてきました。これは法に則った正しく行動したからだと実感しました。

 (二)

 学法グループの同修のCさんは、よく修めていて、みんなに尊敬されています。しかし、彼は少し気が強く、異なる意見を聞くことができません。彼とは2回ほど議論しました。 大したことではありません。ただ、法を学んだ後、私たちが修煉体験を交流する時、或いはある物事に対する考えを交流する時、彼の行動は私にこのような感覚を与えました。

 今回のBさんとのトラブルの件で、私は自分を戒め、外に目を向けず、内に向けて探し、自分を修め、Cさんとも二度と口論しないようにしようと決めました。 彼には不足があり、それは彼自身が修めるべきことで、私が彼のために修めるべきことではありません。自分で自分の不足を見つけて、それを取り除かなければなりません。 私は自分自身を戒めました。心性を守り、そして再会した時に心性を守ろうと自分を戒めました。

 その次のグループ学法の時、問題が再発しました。法を学んだ後、Cさんは大いに弁舌を振るい、ペラペラとしゃべり出しました。内容はすべてマイナス的な内容で、同修の足りないところでした。法理に基づいて交流するのではなく、常人と同じように背後で他人を貶していて、全く法に則っていませんでした。もし以前の私なら、また口を出したでしょう。今回は、たとえ彼が私のことを話しても、たとえ彼が私を叱っていても、私は自分の心性を守り、心を動かさないようにしなければならない、と自分を戒めました。師父は「視て見ぬ、聴いて聞かぬように」[1]とおっしゃいました。私はベッドの中で「明慧週刊」を手に取り、読みはじめました。彼らが何を話しているのか、本当に私の耳には入ってきませんでした。

 家に帰ってベッドに横になると、居眠りしている中、私の空間場から幅1尺、長さ1尺半の分厚い黒い氷が、ゆっくりと落ちて行き、溶けているのが見えました。全身が急に楽になった感じがして、非常に素晴らしかったのです。私は心の中で、「師父、ありがとうございます!」と申し上げました。

 私が心性を守り、法に符合していたから、師父は私を加持し、頑固な業力を取り除いてくださったのです。本当に「修は己にありて、功は師にあり」 [2] なのです。

 私は悟りました。煉功することは難しくなく、法を学ぶことも、発正念し、真相を伝えることも難しいことではありません。自分を修めること、執着心を取り除くことこそ最も難しいのです。心をえぐるような中で、世々生々をかけて形成された人間の観念を完全に捨て去ることは本当に難しいのです。しかし、本当に放下しようと決意したとき、得られるものや向上は、素晴らしく、いくらお金を出しても買えるものではありません。これは、着実に修めたからこそ得られたものです。

 次のグループ学法の時、Cさんは別人のように穏やかな顔をして、話す言葉もすべて法に基づいていました。一見するとよく修煉できている人でした。以前の強大な気勢の影はなくなりました。私はすべてのパフォーマンスは虚像であり、私が向上するためのものであると理解しました。私が向上したら、その幕が下ろされました。師父、ありがとうございました。

 僅かな認識と体験であり、同修のご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/10/426731.html)
 
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