文/ 中国の大法弟子
【明慧日本2022年4月22日】私は同修と接する中で、なかなか気づかない問題点として、自分の観念で同修を決めつける傾向があることに気づきました。 そのため多くの同修に対して、自分の考え方で一つの枠に当てはめていたのです。例えば、この人は人心が多い人だとか、恐怖心が強い、悟性が悪い、また、誰それは良い人で精進している、ある人は、考え方を変えようとしない、などなど、ああだこうだと決めつけてしまっているのです。
たとえば、海外に長く住んでいるが、「文化が閉ざされている」状態にある中国人の同修は、他人と話すときに相手に敬意をもって話を聞くことが出来ず、聞いたことをすぐに自分の観念で測り、決めつけてしまう(汚名を着せる、またはレッテルを貼る)人が結構いるのです。決め付けた後、その決め付けが正しいことを自分自身で証明し続け、自分の判断が正しいと思い、人に汚名を着せ、打撃を与えているのです。 全体の話を全然聞いておらず、最後になっても相手が何を伝えたいのか、全くわかっておらず、気にせず、この様な習慣が当たり前になっているのです。他人に汚名を着せることに慣れ、これに加え他人の意見を受け入れないことに慣れ、人に言われたくなく、物事を客観的に見ることに慣れていません。これは、自由な社会に生きる人々に、中国の人々とのコミュニケーションを非常に難しく感じさせる大きな要因の一つなのです。
実際は、師父以外、誰もが大法弟子の本当の状況を見ることができず、私たちが見ているのは、外見上の現れにしか過ぎないのです。一つの生命の背後にどれほど巨大で複雑な要因が関わっているのか、その歴史が遠い未来に向けていかに膨大であるか、その生命はどれほどミクロなのか、生命がカバーする範囲がどれほど広大で、現れる形式がどれほど複雑で多様なのでしょうか。 常人の中で修煉をしている私たちは、このようなことを何一つとしてわかっていません。 そして、私たちは人間の観念でこれらを測ろうとしますが、その生命の表面的な現れを測れるだけで、すべてを測れないのです。
私たちは、往々にして口を修めることにおいて自分をコントロールし、安易に同修を言葉で評価しない様に注意しています。 しかし、心の中ではいつも同修を決めつけ、長い間それにこだわっているのです。私たちは自分の一つの思い、一つの念を修めることができずに、観念と執着を強めているため、自分の考えで修煉ができていない同修を見下し、良いと思う同修を崇拝してしまうのです。しかし、これらはすべて自分の浅はかな認識であり、この認識が「人を見下す」ことにつながり、隔たりを作り「崇拝」をもたらし、それが全体的に損失をもたらすことになるのです。 これらは自分自身が持つ人心、理性、自分だけの認識によってもたらされた結果なのです。
私たちは皆、師父に選ばれた弟子であり、師父はそれぞれの大法弟子に修煉の道を按排してくださり、それぞれの大法弟子は師父の大法の中で修煉しており、異なる時期に異なった現れ方をしているのです。
師父は私たちに、「それから、高い次元へ修煉できない人もいます。彼の身に付いているものと彼の忍耐力を合わせても限られているので、かなり低い次元のまま功を開き、悟りを開き、完全に悟りを開くのです。こんな人も現われてきます」[1]と説かれました。
そうならば、このような人はとても良い人に見えるでしょう、彼らを崇拝するあなた達は、もしかすると彼よりももっと次元が高いかもしれません。 それに、一つの生命の次元の高低は人心を生じさせる理由にはならないのです。 宇宙にはさまざまな次元があり、その次元の生命は、その宇宙の次元で繁栄しているのです。
私たち大法弟子は、師父の要求に従って自分を修めるべきで、すべてのことにおいて大法の基準に従って内に向けて探し、自分を修めるべきなのです。誰に対しても同じように慈悲を持って接し、親切にし、他人を理解し、すべてに寛容であるべきなのです。同修を自分を映す鏡とみなし、同修とのギャップや自分の不足を見つけることが私たちのすべきことなのです。自分が思っている修煉が良くできている同修に対しても、同じ基準で測らなければならず、注意すべことは自分の観念で測ってはならず、 いつも心の中で「この人は良い」と、口にしないように気をつけなければなりません。どんなに良くても大法の異なる次元の修煉者であり、それは彼のあるべき姿であり、私たちが追随してうらやむべきことは何もないのです。
以上は、私の浅はかな悟りです。不適切な所があれば、慈悲をもってご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』