集団学法への参加を重視するよう提示する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年5月18日】師父は大法弟子に集団学法の形式を作られました。この形式は、難攻不落のエネルギー場を生成することができるのです。法を正す進展について来られない同修がついて来られるようになり、大法弟子の全体の向上や昇華につながります。また大法弟子を迫害する邪悪を解体することができ、魔難の中の同修はさらに、早く魔難を乗り越えられるようになるのです。

 法を正す時期の修煉は今日にいたり、邪悪の要素は以前より弱くなりましたが、大法弟子への迫害は一刻も止まったことがありません。特に長い間、集団学法に参加していない同修は、自分自身の修煉がずっと独自の修煉であるため、一部の執着心や、法に合わない行為などがあります。また集団学法の環境がないため、ずっと気づかなかったり、長い間一つの次元に留まったりしています。三つのことを行なっていますが、たまに他の同修と交流することがあっても、交流期間が短いため、互いに不足を指摘することができず、自分自身の不足も認識することができないのです。そのため、直ぐに執着心を取り除くことができなくなります。短い交流だけでは、人の表面だけを見るだけなので、実際の執着が見えません。しっかり交流できて、互いを磨き合う環境があれば、何かの執着心があっても、もっとはっきり認識できるのです。そのため、集団学法という環境は、修煉のためには最もよい環境なのです。

 今でも、一部の同修は決まった煉功点がなく、ずっと独自で修煉をしているため、内に向けて探すことができず、難関に遭っても、長い間乗り越えられないという状況になっています。これらのことは、すべて集団学法の環境の助けが必要です。正念が強く、法理もはっきりしている同修は集団学法の環境の中で、慈悲に難関を乗り越えようとする同修を手伝います。他人のことを優先し、自我を放棄し、利己の執着心を取り除く過程の中で、本当の大覚者の境界になることができます。

 私が知っている限り、長い間、ずっと独自の修煉する状況になるのは、
 1、長年修煉しているので、どうやって修煉するかについては、みんな知っており集団学法に参加しなくてもいいと思う同修がいる。
 2、学法点はあまり安全ではなく、一部の同修が口を修めないと思っている同修もいる。
 3、安逸心のため外で学法をしたくなく、独自で学法しても、法を正す進展についていくことができると思っている。また法を実証することもやっているといい、自我の境地に陥っている同修もいる。
 4、他人を優先する意識が足りない同修もいる、などです。

 さらに、同じ会社で働いている同修は、一緒に学法することもなく、学法グループを作ったこともありません。ここで責めるのではなく、同じ会社の修煉者なら、定期的に一緒に学法すべきであり、会社の修煉環境を重視し、会社の同僚に真相を伝え、衆生を救い済度することをしっかり行うべきです。何かがあってから一緒に交流し、何もなければ各々で学法し、全体学法の環境を重視しないことは避けるべきです。

 旧勢力は、大法弟子が集団の環境から逸れることを望み、同修の間に間隔を設け難を乗り越えている同修を迫害します。また集団環境から逸れている同修は、面子のため同修の助けを頼むことは恥ずかしいと一人で耐えており、難関を乗り越えられません。しかし、集団学法は同修に向上できる環境を提供しているのです。

 そのため、同修は自分のためであろうが、他の同修のためであろうが、集団学法を重視すべきです。周りの集団学法に参加していない同修について、あなたは関心を持って落伍する同修がいるかどうか、もしいるなら手を延べて手伝うべきです。修煉の中で、自分が何を必要としているのかと考えるのではなく、同修が何を必要としているのかを考えるべきです。そして、修煉することは他人を優先するという境地になるでしょう。同修の巻き添えになることを怖がらないで、同修が法に基づいて向上することを手伝うならば、このような問題が出てくることはありません。単純に自分が責任を果たすかどうかの問題だけなのです。もし最後のテストが、全体の昇華だとしたら、集団学法は私たちの心性を試練することではありませんか?

 自分の悟りなので、不適切なところがあれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/3/441990.html)
 
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