内に向けて探し、真に修め、苦境から抜け出す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年8月8日】師父は「学習者が難の中にいるときは、物事の原因を見いだしにくいものですが、方法がないというわけではありません。心を静め、大法を用いて判断すれば、物事の本質を見ることができるのです」[1]と説かれました。

 1カ月前、私は目の病業を乗り越えました。

 業者からの依頼でキノコ小屋の古いキノコ袋を片付ける仕事がありました。6月はとても暑いのですが、直射日光が当たらない小屋の中での作業はまあまあ大丈夫でした。請け負った仕事のため、みんな汗だくで一生懸命頑張っていましたが、これも普通のことです。

 その翌日、私は目の調子が悪いことに気づきました。目の中に大きな砂粒が詰まっているような感じがして、赤く、かゆく、痛く、目やにも出て、不快な状態になり、また刺されたような痛みがありました。

 当時、私はまだ冷静で、最初に考えたのは、修煉者は法の中で悟らなければならないということでした。そして、この状態に対する原因を法の中で探しました。右目なので、師父が説かれた「人間が悪いことをする時、よく右の目を使いますから、その下に副通路がないのです」[2]を思い出したのです。

 右目が作った業力だと思うので、そうであればそれを償い返済し、業を消去しなければならないと思い、身体も苦痛を耐えて、1日も早く右目の業力を返せるようにしました。しかし、翌日には左目にも同じ症状が現れました。自分の悟りはもしかして、間違っていたのかと思いました。

 また師父の法が浮かびました。「意念が四肢や感覚器官を支配して働かせるのです」[2]

 これは右目ではなく、心の問題というべきです。だから、これからは表面だけを見るのではなく、物事の背後にある要因も見ていかなければならないと自戒しました。

 内に向けて探すと、ある観念を見つけました。昨年、小屋で作業しているときにこの症状が出たので、キノコは菌類に属しているため、それが原因だという考えがあり、無意識にそれを認めてしまいました。自分の間違った観念が面倒なことを招くことになったのです。私は、この不正な観念を消滅するという強い一念を発しましたが、事態は好転しなかったのです。

 1日、2日、3日……と、日を追うごとに苦しみを我慢していたのですが、症状はどんどん悪化していきました。眼球全体がまるで砂だらけで、時には針が数本刺さっているような状態で、しかも双方向が尖っているような感覚でした。触れなくても痛くて違和感があり、少し触れただけで目の内側に、そして外側の瞼に突き刺さる感があって、とても苦しいのです。

 それでも、どんなことがあっても、すべての活動は正常で、お金を稼ぐためではなく、関を乗り越えるためにも、やめるわけにはいかないという思いを強く持ちました。この時、私はある一念を持つようになり、もし、それが旧勢力によるものであるなら、それを全部否定し、行動においてもそれを認めないということです。もし業の消去であれば、全力を尽くします。

 8日目には、もう我慢できなくなって、少し動揺し始めました。ただ、半日ほど休んで様子を見たかっただけです。この瞬間、師父の「実はこの時は業を滅しているのです」[3] という法が再び耳元で鳴り響き、私は何度も何度も暗唱し、「業の消去だ」という一念を固くしました。

 内に向けて探すと、たくさんの人心がありました。最もわかりやすく、かつ気づかないのが顕示心で、以前にも修煉の過程で気づいたことがありましたが、これほどまでに狡猾で隠れていたのは初めてでした。仕事をしているときの自分は、身軽で手先が器用で、しかも勤勉で、時には誰かが自分に注目していないかとこっそり見て、人と違うことを見せようとしました。いつも私自身を認めてから、大法を認めてほしいと言っていますが、実際には自分自身を顕示しており、大法を実証していません。これに気づいたとき、本当にびっくりしました。危ないのです。私はこの顕示心は要らない、滅しますと一念を発しました。また、人に言われたくない、言われるとすぐ爆発してしまい、悪者にされることを恐れるなどの人心もみつかりました。本当に探せば探すほど多く出てきて、気持ちがどんどん明るくなり、身体が軽くなると、目も良くなっていきました。

 おそらく10日目の朝、座禅をしていて、知らず知らずのうちに59分間座禅していたのですが、組んだ足を下ろすと、穏やかで愛に満ちた声が「ゆっくりと目を開けて」と、二回続けて言いました。試しに目を開けると左目が開きました。また同じ声がして、今度は右目を開いてみると、また開きました。数日前までは、毎朝水でゴシゴシ洗わないと開かない状態でした。

 その過程を通じて、自分の悟りが正しいか間違っているかは別として、これは私自身のレベルでのこの問題に対する理解です。そして、大法が修煉を導いてくれること、師父が近くにいてくださることを、身をもって体験しました。時間の長短に関係なく、自分を煉功者として、法の中で確実に修めれば、やがて魔難から抜け出し、関を突破することができるのです。

 ところで、7日目の出勤途中、見知らぬ人に「目が腫れている」と言われました。何も感じないと言うと、彼はまた「あなたは目を発している」と言いました。彼の言った言葉が「法(fa)」なのか「発(fa)」なのか聞き取れませんでした。すると、私の体から「法の目」という言葉が飛び出しているのが明らかに見えました。この言葉は、私を加持してくださる師父の言葉なのだと悟りました。

 師父、いつも啓示して守ってくださり、ありがとうございます。

 上記は私自身の修煉過程です。もし法に沿わない場合はご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「理性」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十五』「二〇一九年ニューヨーク法会での説法」 

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/7/25/446782.html)
 
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