「自我」を知る体験の一部
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年11月14日】「自我」というものはとても修めにくく、時にはそれにしがみつく正当な理由もあります。自分が知っていることや、行っていることが正しいことなど、そのように思っています。見かけ上の原因そのものが正しいのか間違っているのかではなく、自己認識にとどまることに執着することが間違っているのです。

 一時期、技術担当の同修が安全性に対して「過剰」なまでに慎重になっているのを見て、見かけ上の安全性の形は人間の解決策であり、本当に問題のある要因は心性の漏れだと考えたため、同修の正念が十分ではないと感じていたことがあります。しかし、パソコンやネットワーク、その他一般的なセキュリティの知識や技術について何も知らなかったため、結論を急ぎすぎていたことに後で気がつきました。

 数年前、同修が家宅捜索を受けた際、私や他の同修が使っていた「メールボックス」(同修は便宜上メールアドレスとパスワードを紙に書いていた)を取り上げられましたが、私はその前に無意識的にパスワードを変更していたので被害はありませんでした。2年後、私は明慧のウェブサイト(セキュリティの問題がどこにあるのかわからない)を見ていて、国家安全保衛部門に「気づかれて」しまい、大きな混乱を招きました。その後、まず思ったのは、同修がメールボックスや電話でよく誰々や誰々を直接呼んでいたことが原因かもしれないということでした。

 同修から普段の肩書きで呼ばれるたびに、「正念が強くても、理性的でなければならない」という不満が湧き上がってきます。同修の「自我」が強く、誰に言われようと自分流にやっているとしか思っていませんでしたが、内に向けて自分自身を直そうとは思わなかったのです。人の「自我」を見ていると、自分にも問題があるに違いないと思うようになったのは、数回目からでした。実際、メールボックスや電話で私の苗字と役職を直接呼んでいる同修の中には、とても素直で正直な行動をとり、悪条件の中でも前向きに考え、どこでも堂々と真実を語り、法を実証する人もいます。

 そう考えたとき、自分自身を振り返ってみると、考えが複雑、曖昧に物事を進め、時には事の表現方法を直接言うか、あるいはやればいいのですが、しかし、非常に複雑に考えていて、遠回りしています。表向きは平和主義、裏向きは常に争いや問題を避けようとしています。よく円滑に、人を怒らせず、遠回りするなど、「自我」を主張することが多いです。自分自身の「自我」は非常に奥深いところに隠されていることがわかり、他人には気づきにくく、自分自身はさらに気づきにくいことがわかりました。これは私の最近の認識になります。

 「自我」は、家庭環境でますます顕著に表れます。生活の中で、修煉しない家族は利己的で視野が狭く、観念が多い割には知恵がないと思い、修煉者の基準で、修煉しない家族を要求し、しばしば対立し、さらに激化することが多いです。それが自分の「自我」の表れだと分かっていても我慢できないのです。

 家族への誤解は、「法輪功問題」で警察が家に来た時まで気付かなかったのです。家に来た警察に家族は「彼が法輪功を修めているのは、ただの信仰ですよ」と言いました。妻は普段から容赦なく口答えをするので、私が三つのことをするのを邪魔していてとても悪い、大法に救われるかどうかは未知数だと思っていたなど、自分の主観的な思い込みに気づかされました。しかし、警察の前では、普通の人のような正念で、肝心なときには大法に寄り添うことができたのです。私はすぐに妻のことを誤解していたことに気づき、それゆえ恥ずかしく思いました。20年以上修煉してきたのに、いまだに凡人と同じように「自我」にこだわって議論しているのは、自分を凡人扱いしているのに等しいのではないでしょうか。

 私は自分を責め、内に向けて非を探し始めました。「昔は、いつも彼女が私の修煉を邪魔していると思い、いつも普通の人(家族)に、様々な理由やその理解を超えたことを要求し、間違っていてもいろいろと言い訳して正当化しようとして、自分は正しいと思い込んでいました」。しばらく整理していると、考えれば考えるほど、師父の慈悲深い救いに申し訳なくなってきて、すぐに「師父、私が間違っていました」と言いました。このとき、嫌なものが一気になくなった気がして、とても気持ち良かったのです。それ以来、「自我」はあまり強くなく、抑制することができるようになり、顕在化する前に押し戻されることもあります。それは、自分が「本当の自分」ではないことに気づくことができたからです。

  「修煉」の意味合いは深く、あらゆる面に反映されています。もしあらゆる面で、それについていくことができれば、特に学法、法を暗記することについていくことができれば、「自我」の物質を修めることはそれほど難しくないかもしれません。ここまで書いてきましたが「自我」についての認識や経験が、正しくないものもあるかもしれません。

 師父に感謝します。同修ありがとうございます。合掌。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/2/451399.html)
 
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