自我を放下してこそ 自分に対して申し訳が立つことができる
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文/ニューヨークの大法弟子 忘塵

 【明慧日本2022年11月28日】いろいろ不如意の時期を経験した後、私は最近自分自身を振り返って考え直しました。長年プロジェクトを行う中で、無意識のうちに、常人の仕事をする心や、名利心が芽生え、ひいては常人のようになってしまいました。

 古代では、人々は名声や出世のために貢献することが多かったのですが、実は、はっきり言って、自分の家族の利益のためです。名利心や、キャリアを築きたいという心から、次第に心の中の大法の位置が薄れ、自我が大きくなり、自分がどれだけやったか、どれだけ成果を上げたか、どれだけすごいか、同修からの褒める言葉や羨望を楽しみ、異なる意見には耳を貸さなくなり、耳に痛い言葉を聞こうとしなくなりました。その結果、嫉妬心や負けず嫌いの心、虚栄心といった人心を生じ、互いに争うことすらあり、人を救うことを第一に考えず、不純な心で仕事をするために、多くの努力が台無しになり、また効果は大幅に下がってしまいました。

 修煉者は、常人の名・利・情を捨てるべきで、純粋な心で衆生を救うことこそ、自分の行うことが正念の作用を発揮することができ、妨害されたり破壊されたりしなくなります。

 師父は「内を修めて外を安定させる」[1]と説かれています。

 師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[2]と明示されました。

 私たちは本当に信じているのでしょうか? 本当に修めているのでしょうか? それとも、常人の心を抱いて大法弟子の中でトラブルを起こし、人々を救うプロジェクトにさまざまな不必要な妨害を受けているのでしょうか? 人を救うためではなく、プロジェクトで名利を得ようとするとき、実はもう合格した修煉者ではなくなり、様々な人心を抱いて人を救うことを邪魔することしかできないのです。

 それを悟った後、私は豁然と眼前が開けたのです。「沈みたる舟のかたえを千帆過ぎゆき」という感覚は、ようやくなくなりました。「沈みたる舟」というのは、自分が行き先を間違えたからであり、自分の執着心が修煉と人を救う道を阻んでいることが原因で、自分は迷い、混乱し、不平不満を感じ、外に向かって探してしまうのです。結局のところ、私たちは修煉のためにここにいるのであって、世の中の華やかさを楽しむためではないのです。

 師父は「実は、人を済度するのは法であって、このことをするのは師父のみです」[3]と説かれています。

 それなら、私たちは様々な人心を現し、法を正すことを妨害してはならないのです。むしろ、真に自我を捨て、大法を実証してこそ、はじめて自分自身と衆生に対して申し訳が立つことができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「内を修めて外を安定させる」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「たわむれ言を語らない」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/23/452248.html)
 
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