文/ロシアの大法弟子
【明慧日本2023年1月27日】私が修煉を始めたのは、2010年の大学1年生の時です。毎週日曜日、私たちはロシアのツァリツィノ公園に行って煉功します。始めの頃、第5式の功法をすると1時間の最後の数分までずっと足が痛くて、歯を食いしばって耐えました。
ある夏の日の午後のことです。気温が高く、太陽がじりじりと照りつけている間、私は座禅していました。すでにいい状態に入っていましたが、足の痛みはとても辛いものでした。周りの喧騒はすぐそばでしたが、遠くに感じられました。その時、「あなたは衆生を救い済度するために、このような苦難に耐えられますか」という声が聞こえました。私は何も考えずに、「耐えられます」と答えました。その声は続けて私に、次の世界では、真・善・忍という新しい宇宙の基準に同化しなければならないが、「忍」の部分が基準に達していないため、人間界でこの部分の修煉を完備しなければならないと伝えてきました。心の奥底から出てきたこの答えのおかげで責任感が湧き上がり、痛みに耐え続ける力を与えてくれました。
修煉を始めて間もない頃です。座禅の中で、内心の深いところにあったこの一問一答で、私は驚きと同時に師父への感謝と、言葉では表現できない使命感に満ちていました。そうです! 私たちは使命を持って生まれてきたのです。人間の表面は迷える中にあり、目の前のすべてに妨げられて「本当の私」を表せませんが、内心の最も深い所では理解しているのです。
法を正す時期の大法弟子の修煉は、決して個人の円満成就のためではありません。しっかり自分を修煉するということは、自分の範囲内の衆生を新しい宇宙に同化させることであり、歩んでいる修煉の道は、新しい宇宙の基準に徐々に到達していく過程でもあります。 師父は、「各人の歩む道も異なっています。なぜなら各人の基礎が異なり、各種の執着心の強さが異なり、生命の特徴が異なり、常人の中での仕事が異なり、家庭環境が異なる、等々の要因によって、各人の修煉の道は異なり」と説かれました[1]。
私たちは正法と共にあるのです! 私たち大法弟子の出所はそれぞれ違うのですが、円満に達するという最終目標は同じです。私たちはそれぞれ違う道を歩んでいますが、世の中で3つのことをよく行う責任は同じです。自分をしっかり修煉すると同時に自分の範囲内の衆生を救い済度し、他の衆生を救う責任も負っています。ですから、修煉と迫害の真実を伝える中で遭った悩みや苦しみも、自身と衆生の業力の所為です。法を正す師父を手伝うという言葉には重みがあり、もしあなたがその責任を負うのなら、その重みに耐えなければなりません。
耐えるときに個人を出発点にすると、耐えるにしても限界があります。しかし、人のためと思えば限界はありません。大法弟子がまだこの世にいる限り、毎日向上し続け、限界の目盛りを突破しなければなりません。自分がこの世に来た使命のために、人間の苦難と汚れを恐れず、身の危険を顧みず、目を凝らして茨の道を歩いても振り返らず、大法の光に従えば、必ず帰れると確信しています。座禅する時の痛みも、執着心を取り除くときの辛さも、トラブルが起きたときに傷つけられた痛みも、真実を語るときに理解していない人から罵倒される痛みも、この世で受けた苦しみは千万倍に増幅されて、あまねく降り注ぐ慈雨に変わり、天国の衆生を滋潤します。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「道」