箸と花への水やり
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2023年6月22日】最近起きた日常の2つの出来事から、私は修煉についてのいくつかの感覚を得るようになりました。

 1.他人の箸

 ある日の昼食のとき、私は食器を並べて、両親に食事をしましょうと呼び、その後、台所からみんなの料理を運びました。すると母親が「箸が一膳足りないわ」と私に声をかけました。

 私は料理をテーブルに置き、母親の方を見ると、母が向かい側の父親の箸を使っているのが見えました。私は「お母さん、あなたのお箸はちゃんと目の前にあるわよ!」といいました。母は「あら、見えなかった」と言いながら、自分の前にあった箸を父に渡しました。

 私は突然気が付きました。時々、私の修煉に問題が生じるとき、同じように自分を見ずに他人を見て、他人の「箸」にばかり注目してしまうのです。

 2.2階の花の水やり

 ある朝、天気が良かったので、毛布を干そうとベランダに持っていきました。午後2時過ぎにそのことを思い出し、ベランダから、身を乗り出して毛布を取り込もうとしました。その時、霧状の水が顔にかかりました。見上げると、上の階のバルコニーの外に植木鉢が見えました。「また上のおばあさんが花に水やりしているのか。早めに布団を取り込んで良かった、そうでないと毛布が濡れてしまうところだった」。以前にも、2階のおばあさんが花に水やりをして、私たちの洗濯物が濡れてしまったことがありました。

 しかし、振り向くと、我が家のベランダの北側に置いてある野菜かごの蓋が濡れているのが見え、私は初めて、雨が降ったことに気が付きました。日はまだ高く、晴れた日に雨がちょっと降っただけで止んでいたのです。「2階のおばあさん、ごめんなさい。誤解していました」と心の中で詫びました。

 私は、人間の後天的に形成された考え方は、あまりにも頑固で恐ろしいものだと気づきました。それがあなたが見ている本来の「事実」を簡単に歪めてしまう可能性があるのに、それに全く気づかず、自分の考えが非常に正しいと思い込んでしまうのです。

 (編集担当:于悦)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/6/18/462088.html)
 
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