文/海外の大法弟子
【明慧日本2025年2月3日】新経文の「法難」と「目覚めなさい」から私が受けた最も大きな感銘は衝撃、驚愕、目覚めです。
衝撃を受けたのは、メディアが巨大な魔難に遭った緊急の時、師父が天から降りて難を遮ってくださったことです。驚いたことは、師父が初めて「法難」という言葉を使って、私たちが今受けている迫害と圧力を指し示されたことです。さらに驚き恥じ入るのは、今回の法難は大法弟子が長期にわたりしっかり修煉できないことが原因で招いたものであり、師父と神韻芸術団にまで妨害を及ぼしました。
目覚めたのは、師父が二つの新経文に指摘された大法弟子の漏れと不足は、実は過去数年間、大法弟子に対して、ずっと説き続いてこられた法理であることです。しかし、弟子の私たちは従わず、よくできず、とうとう師父と神韻に迫害とトラブルをもたらしました。これは、「大法弟子」という称号と、師父の慈悲深い教えに恥じるのではないでしょうか?
1、師父の忍と慈悲
「法難」と「目覚めなさい」は明慧ネットに掲載さただけでなく、大紀元など複数の主要メディアを通じて外部に広められました。私が悟ったことは、師父は自らこの巨大な困難と迫害を引き受け、攻撃されていたメディア(大紀元)と大法弟子たち、大紀元を通じて将来救われる可能性のある人たちを守られたのです。言い換えれば、師父は神の体を使って弟子たち、大紀元、生命の罪を贖い、すべての生命に未来を与えられました。これは、二つの新経文を通じて私が悟ったものです。
さらに、師父は神の力を使ってこの巨大な魔難を防ぐ際に弟子たちに熱心に教え、正しい道を示して善行を勧め、一人の弟子も見捨てないほか、大法弟子が迫害に立ち向かって何を行っているか、神韻芸術団が何を行っているかを世の中に向けて丁寧に説明され、みんなの良心を呼び覚まし、邪悪に利用されて悪事を助けることをしないようにと促されました。師父の浩々たるご恩に、私たちは永遠に感謝しても足りません。
2、法難はどのように発生したのか
二つの新経文から、今回の法難の起源が三つのことによるものだと思います。一つ目は、衆生と大法弟子が持っている業力です。二つ目は、修煉者が十分に良く行っていないからです。三つ目は、修煉者の慈悲心と善意が足りないからです。
まず、業力について話したいと思います。師父は「法難」に「実は、私たちが人を救っている今、まだ15%の業力が消されていません。これは衆生を救っているこの二十数年間、蓄積されたものです。とても巨大な業力であり、私には分かっています」と述べられています。どうしてこの15%の業力が存在するのかは天機であり、ここで軽はずみに推測することはしません。
次に、修煉者が十分に良く行っていないことについてです。師父は「目覚めなさい」に「メディアだけではなく、すべての大法弟子は皆、大法修煉者として行なうべきことを行なっているかどうかを考えるべきです。振り返ってみて、私は恐ろしく感じています。多くの人は長期的に自分の修煉を緩め、常人と同じように振る舞っており、これは大法弟子としてあるべき状態ですか?」と説かれています。
今回の法難に際して、全ての大法弟子は内に向けて探し、自分の修煉状態を正すべきだと思います。私はメディアでの長年の経験に基づいて、メディアの職場環境に長く存在して、大法弟子全体が慈悲心と善意を育むことを妨げるいくつかの問題点に気づきました。
1)慈悲心と善意が足りず、神の状態から外れている
過去数年にわたり、師父は大法弟子が立ち上げた大手メディアや個人メディアに対して、常人の政治に関わらないよう、特定の政党や個人を攻撃しないよう、すべての衆生をできる限り救うようにと幾度となく忠告されました。しかし、どうして今回の法難が起こったのでしょうか? これは、私たち全体が実際に師父の言われた通りに従って行動していないため、邪悪に隙に乗じられて、大きな罪と法難を引き起こしたのです。
なぜ師父の言われた通りに従って行動できないのでしょうか、アクセス数や名利のためでしょうか、特定の政党に対する好意や恨みのためでしょうか、それとも自分の得失を大法全体の得失よりも重視したからでしょうか。私たちの生命の本質は人のため、それとも自己のためでしょうか。私たちの生命はどれほど新しい宇宙に入って、どれほど旧宇宙に迷っているのでしょうか。これらは深く考えるべき重要な問題だと思います。
慈悲がなければ神になることはできません。善がなければ衆生を救うことはできず、かえって悪魔に人心を利用され、衆生を壊滅させる羽目になります。
2)細かいことにこだわらず、小さな一歩が正しくないと大きな転倒につながる
大法弟子のメディアに、才能や大きな抱負を持つ同修が多くいます。彼らは、大法のプロジェクトを大胆に推進し、より多くの生命を救うことを誓っています。しかし、具体的に仕事を行う段階になると、「細かいことにこだわらない」、「急いで成果を出したい」という傾向が出やすくなります。その結果、自分の作業を楽にし、急いで成果を求めるあまり、不正な方法や危険な手段を選んでしまうことがあります。
私たちがやった「不正」な一歩は、一般の人には気づかれないかもしれませんが、天上の神々の目には明らかです。それは、旧勢力にとっては、利用できる機会となります。旧勢力は私たちの「細かいことにこだわらない」心理を利用して名、利、情を餌にし、さらに多くの不正な道へと誘惑します。私たちが喜んで大きな一歩を踏み出そうとするとき、旧勢力は突然攻撃を仕掛け、私たちを打ち倒すのです。
なぜ、私たちの中に「不正」な考えが生じるでしょうか。もしかすると、私たち全体がすでに正しい道から外れて純粋さを失った結果、大小さまざまな不正な考えが住み着く余地を見つけたのでしょう。100%純粋な空間には、どんな邪悪な存在も侵入できず、侵入した瞬間に消滅されます。
別の視点から見ると、「細かいことにこだわらない」、「常人のルールに従わない」という冒険的な、駆け引きを常習的に行うような行動パターンは、衆生に対する慈悲心の不足の表れではありませんか。一歩一歩正しく踏み出してこそ、はじめて人々を納得させ神々を納得させることができます。私が得た一つの洞察は、「正しい道を歩む」ことは慈悲の表れだということです。
3)常人社会のルールを守りたがらない
時に修煉者が口では正念ばかり語っても、行動で常人社会のルールに従おうとせず、周りに受け入れられるかどうかあまり考えません。その結果、物事がスムーズに進まず、最終的には失敗に終わることが多く、周りから理解されないため、大法弟子としての慈悲を示すことができません。
どうしてそうなったのかを分析すると、面倒くさがる、自分を変えずに相手だけを変えたい、人に指摘されるのを嫌うなどの心理が見えてきます。特に、同修に指摘されたら「あなたこそもっと正念を持つべきだ」、「あなたは、恐れる心を持っている」、「常人の枠にとらわれてはいけない」と反論する人が多くいます。
しかし、もっと深く内に向けて探すと、私たちは人心をもって大法を理解し、「超常的」な正念や師父の助けを頼りに、やりたくない労働や努力を避け、自分を変えることを拒み、楽な道を選ぼうとしていることが分かります。
「正念」は、ただの怒りや熱血的な衝動ではなく、宇宙のあらゆるレベルで通用し、あらゆる法理を包含する智慧と慈悲なのです。
(続く)