町の人はみんな私の不思議な変化を知っている
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文/中国の大法弟子

 【明慧ネット2013年6月29日】私が法輪大法の修煉を始めた時、私はまだ10歳の子供でした。それ以来15年、私はずっと師父の慈悲なる加護のもとで成長してきました。師父は私に2度、生命を与えて下さり、そして、私に生命の本当の意味を分からせてくださいました。師父に感謝申し上げます。

 一、町の人はみんな私の不思議な変化を知っている

 私は幼い頃、体調がとても悪く、10歳の時に心筋炎を患い、休学せざるを得なくなりました。毎日ある診療所へ点滴を受けに行き、私の両手の甲には注射針に刺された跡がいっぱいでした。その後、腕、手首、足も同様の状態になりました。何カ月も点滴を受け、少し良くなったと感じ、学校に復帰しようと思いました。しかし、学校に戻るその日、母は私を連れて身体検査を受けに病院に行きました。その結果、私は慢性腎炎を患っていることが分かりました。まだ10歳の子供にとって、それはまるで青天の霹靂でした。当時、父は肝臓に病気があり、家の経済状況はとても悪く、母は私が腎炎を患っていることを知って、病院で大声をあげて泣きました。

 当時、私はこの病気がまったく完治する見込みがないという深刻さを知らず、ただ、自分が毎日とても疲れて、歩くだけでも疲れを感じました。その後、3階の階段を上る時にも、父か母におんぶしてもらうようになりました。両親は私の病気を治療するために、西洋医、漢方医、色々な薬を試し、また邪気を追い払うため「巫女」まで探してきて、あらゆる手を尽くしました。しかし、これらはすべて微々たる効果しかありませんでした。

 私が住んでいる町は比較的辺鄙な所にあるため、あの頃、法輪大法はまだ私の郷里にまで広まってきていませんでした。父は気功の愛好者で、多くの気功を研究していました。当時、ある功法が病気にとても効果があると聞き、父は地域で唯一、この功法を煉功している人を見つけ、一冊の『法輪功』を借りて来て、家で読みました。父は以前から、多くの気功をしたことがあり、家には沢山の神、佛陀、菩薩の像を供えていました。私は小さい時から修煉などの話にとても興味を持ち、修煉のことも、とても信じていました。父は『法輪功』を読み終わり、この功法は本当に素晴らしいと感じ、本の中で教えられた動作の通り、一つ一つを煉功し始めました。そして、私にも教えてくれました。

 その後、近所のおじいさんやおばあさん、父の友達が一緒に公園で煉功しようと相談しました。一つの目的は、もっと大法を広げるため、もう一つはお互いに一緒に煉功する環境を作りたいということでした。そこで、私は毎朝、公園で煉功しました。よく覚えています。当時は毎日、日が出て間もなく、私は起床して、父について公園で煉功しました。最初の頃、私は体が衰弱していたため、父は私を煉功場までおんぶして行き、傍に坐らせていました。数日後、私は自分で立ち上がって、一緒に煉功するようになりました。

 こうして、僅か2週間続けただけで、私の病気はすべて消えてなくなりました。毎日煉功しても疲れはなく、精神状態も良くなって、学校へ行きたいと思い始めました。そして、学期の半分も学校に行っていなかったにもかかわらず、学期末試験の成績はクラスで1位でした。

 私のこんな不思議な変化を目の当たりにし、また、大法が私に与えてくれた健康と知恵を見て、もともと、何も信じていなかった母も修煉の道を歩み始めました。

 町の人々は私の身に起きた不思議な変化を知り、大法の修煉を始める人もだんだん多くなりました。1997年から1999年までの僅か2年間で、大法の修煉者は1人か2人から数百人へと急増しました。私達の小さな町だけでも300人以上の人が修煉していて、毎朝公園で煉功しました。あの和やかな雰囲気と光景は、今でもなお私の記憶に生々しく残っています。

 大法は私達の小さな町の人々に、あまりにも多くの不思議なことをもたらしました。すべての修煉者が、自分の体験と不思議な話を何冊もの本にまとめることができるでしょう。

 私はここで一つのちょっとした体験を話してみたいと思います。それは公園で煉功をしていた時、隣の花壇で起きたことでした。公園の中央に一本の道があり、その両側に花壇がありました。私達は東側の花壇の傍で煉功をしていました。東北地方の天候は比較的寒く、花が咲く期間も短く、秋に入ると花はすぐ散って枯れてしまうことが多いのです。しかし、私達がそこで煉功を始めてから、私達の側の花は向こう側の花よりもずっと綺麗に咲いていて、しかも、枯れるのが遅かったのです。私は最初、あまり注意していませんでしたが、ある日、公園に遊びに行った時にそれを発見しました。もうすでに晩秋で、公園の花の大部分がほとんど散ってしまっていました。私が煉功場を歩いていた時、その花壇の花はまだ満開で、散りそうな気配は全くありませんでした。しかし、同じ西側の花壇の花はすべて枯れて散っていました。その時、私はまだ幼く、ただ非常に不思議に思っただけでした。あの時の光景は今なお、懐かしく思い出されます。

 二、道を誤ったが正道に戻り、私は再度、師父に助けられた

 1999年7.20、法輪功への迫害が始まった後、私の家族はさまざまな迫害を受けました。不当に家財を差し押さえられ、留置され、労働教養を強いられました。当時、私はまだ小学生で、父と母はそれぞれ程度の異なる迫害を被り、留置や労働教養を強いられました。集団学習と煉功の環境を失い、本もすべて警官に没収されました。私はずっと大法を固く信じ、修煉を一度も放棄せず、毎日、師父の法によって自分を厳しく律していました。しかし、長く学法と煉功ができず、また常人の中で生活や勉強をしていたため、そこから、私は次第に怠けて、精進しなくなり、学友達と名誉を競ったり、利益を奪い合ったりして、常人の中から自ら抜け出すことができなくなりました。

 高校1年の時、母が労働教養所から帰って来ました。その時、私の健康状態はすでに悪く、終日元気がなく、疲労を感じ、勉強も続けられず、何をするにもやる気が出ませんでした。母は私の様子を見てとても心配しました。しかし、私はまだ目が覚めず、精進しようと思いませんでした。ある日の夜、私は高熱を出して、体が小さなストーブのように熱く、腰には激しい痛みが走りました。今までこれほどの痛みを経験したことがありませんでした。私はあまりの痛さで話すことすらできず、体中の骨まで痛く感じました。母も私と一緒に一晩中一睡もできませんでした。

 ようやく夜が明けました。私はもうこれ以上痛みに耐えることができなくなり、母も少し正念を失い、タクシーで私を市の病院に連れて行きました。病院で検査をすると、医者も大変驚きました。なんと急性腎炎で「+」が六つ、しかも高熱を伴っていました! 医者は危険を恐れて、私に薬を処方する勇気も、入院させる勇気もありませんでした。母は仕方なく、私をある小さい診療所に連れて行き、最も一般的な抗生物質であるペニシリンを注射してもらいました。その時、私は高熱で、しかも腰が痛くて背筋を伸ばすこともできず、注射しても効果はありませんでした。その後、私達はある同修の家に行きました。

 同修の家に着いた後、母は「あなたはやはり修煉しましょう。あなたを助けてくださるのは師父だけですよ」と言いました。衰弱した私は、ソファーに寄りかかって『轉法輪』を読み始めました。少し読んではしばらく休み、また少し読んではしばらく休みました。本を読んでいくうちに、私は次第に元気が出てきて、少しものが食べられるようになりました。私は読み続け、ひっきりなしに読みました。一日に何講も読みました。

 このようにして3、4日が経ちました。私はすでに正常に戻ったと感じ、また検査をしてみました。前の六つの「+」から一つの「+」になりました。検査した医者も非常に不思議に思い、「この数日間に何か特効薬でも飲みましたか」と母に聞きました。

 私の心の中は、師父に対する深い、深い感謝の気持ちが一杯で、改めて修煉の道に戻ることを決意しました。しっかり精進することだけが、師父の慈悲なる済度に背かないことだと思います。

 現在、私はすでに大学を卒業して就職しています。私が怠けて、精進しない時はいつも、師父が私に新たな生命を与えてくださったことを思い出します。師父の慈悲なるご加護のもとで、一歩一歩歩んできて、今日までたどり着くことができました。師父に感謝し、大法が私のすべてを与えてくださったことに感謝いたします。私はただ絶えず精進して、三つのことをしっかり行い、師父の救い済度のご恩に報いたいと思います。合掌。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/24/275753.html)
 
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