原稿を書く過程で 観念を突破して執着を取り除く
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文/黒竜江省ハルビンの大法弟子

 【明慧日本9月5日】私は7月31日、明慧ネットに掲載された「明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会の原稿募集」の通知を目にしました。しかし、一瞬目に止まったのはタイトルのみでした。私には関係がないと思い、自分は修煉がよくできていないので、書くことができない、書くことがないという気持ちから、具体的な掲載内容を見ようともしませんでした。

 2日後、明慧ネット上に交流会へ投稿する呼びかけの文章が絶えず掲載され、みんなを激励しました。私は掲載された全ての文章を一遍一遍真剣に読み、心を打たれ、投稿しようと思い立ちました。改めて応募要領を確認した上、パソコンを開きました。長い間画面に向かっていましたが、頭の中は空白で、一字も書けませんでした。

 私はパソコンを閉じて、「師父、私に知恵をお授けください!」と師父にお願いしました。そこで私は法を得て以来の様々なことを振り返ってみて、書く内容を洗い出すことができました。少し自信がついたところで、再びパソコンを開きました。しかし、しばらく画面を見つめていましたが、どこから書き出せばいいのか分からず、とうとう一字も書けませんでした。私はまた心の中で、「師父、『神の筆』をお授けください!」と師父にお願いしました。私は同修の書いた文章を思い出しました。華麗な言葉もなければ細工された語句もなく、何と整った文章ではありませんか。文章を読んでいると、まるで同修と面と向かって話し合っているようでした。純粋な気持ちで述べられており、状況がよく伝わってきて、これがいいと決めました。そうすると、文章の構想が泉のように湧き出てきて、原稿を一気に書き終えることができました。

 同修は、原稿を書く過程は心性を修める過程だと言っていました。実際にペンをとって書いてみて、初めてその真義を深く理解することができました。原稿を書く過程で、多くの人心を取り除きました。例えば、いざ師父のおっしゃった法理を書こうと思っても、記憶に残っているのはただ自分の理解した意味しかありません。師父のおっしゃった正確な言葉は覚えていません。どの説法でおっしゃったのかも覚えていません。普段、心を込めて深く学法していないことが赤裸々に暴き出されてしまいました。師父のお言葉が入っている説法を探し始めたところ、どう調べても一つも見つかりませんでした。こんなに多くの説法の中で、どのように探せばいいのか、まるで海に落とした針を探しているかのようで、途中で断念したくなりました。しかし、すぐに自分の短気と忍耐不足に気づきました。私はそれを解体しようと発正念しました。同時に心の中で「探している説法が見つかりますように」と師父にお願いし続けました。心を落ち着かせて間もなく、師父の元のお言葉が載っている説法のすべてを探し当てることができました。

 原稿を書き終えて、同修である母に見てもらいました。母に数個所修正すべきだと指摘されました。私はすぐ機嫌が斜めになり、よく書けているではないかと修正したくありませんでした。しかし、この考えは子供の頃から形成されてきた習性だと気づきました。子供の頃、一気に作文を書き上げた後は、一度も修正した覚えがありません。その上、毎回の作文は一番よくできていると評価されていたため、その時から一旦書き終えた文章に対して、修正したくないという習性が根強く形成されました。母に修正するようにと指摘された言葉が自らの長年にわたって形成された観念にぶつかりました。そこですぐ師父の法、「この領域を切り開くには、常人の観念を根底から変えなければなりません」[1]が脳裏に閃きました。「そうだ、これは正に私の常人の観念だ」と認識しました。気づいた後、誠意をもって母のアドバイスを受け入れました。自ら読者の立場に立ち、しっかり事情を説明できているかどうかと何回も原稿を読み直しました。満足するまで何度も修正し、最後に明慧ネットに投稿しました。

 文章を書き終わった後、自ら突破したことはとても大きかったと実感しました。最初の無関心から、同修に励まされて真剣に修煉の歩みを振り返るようになりました。何も書くことがないという消極的な観念を突破し、師父のご加持を仰ぎながら原稿を完成し、法理を悟った途端に、師父の説法を見つけることができました。法理に沿って人心を取り除きました。一旦書き終えた文章に対して、修正したくないという長年の習性を取り除くことができました。

 私が投稿に至る経緯を書いた目的は、同修が前向きに投稿する意欲を引き出すためです。「何を書けばいいのか」、「書くことができない」といった考えを持っている同修は少なくありません。心から書きたいとの思いさえあれば、揺るぎなく師を信じ、法を信じると(法の中に限りなく知恵があるので)、必ず書けるようになります。これだけ長年の修煉を経てきているので「何も書くことがない」はずはありません。様々な「関」と「難」を前にして、師父のご加護の下で、師を信じ、法を信じる固い正念で、今日まで歩んで来ることができました。全ての体験は法を実証する道において独自のものであり、修煉の中で2人として全く同じ難に遭遇することはありません。自らの体験はごく一般的だと思わず、それはまさに神に向かって歩んで来た道の礎石となっています。「書くことができない」という口実で機縁を逃さないようにしてください。師父は「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]とおっしゃいました。原稿を書くよりはずっと難しいことでも、同修の皆さんはよくこなしているのに、それを文字化すれば文章になり、比較すればずっと容易いはずです。

 以上、現段階においての私の見解です。不適切なところがありましたら同修の皆さんの慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
    [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/27/278704.html)
 
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