法輪大法の修煉により体得したこと(三事例)
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 【明慧日本2013年11月17日】

 慈悲」について体得したこと

 文/中国の大法弟子

 私はずっと師父のお言葉「あなたが劫難に遭遇したとき、その慈悲心がこの難関を乗り越えるのに力を貸してくれます」[1]をしっかりと覚えています。多くの場合、特に苦難に満ちた時、私は必ずこの言葉を思い出します。慈悲はこの上ない強大な力だと切に感じています。

 「7.20」前の個人修煉の段階では、慈悲に対して、私は多くの体得がありました。修煉状態が良い時、心は純正で、細胞までが慈悲に包まれているかのように感じ、その雰囲気は周囲の人に伝わり、言葉も人の心の奥深くに達することができると感じました。関門を突破する中で、慈悲心が大きい時、邪悪は私に届かず、あるいは届いても力を発揮することができないと思いました。その間、師父は私のたくさんの大きな難を解消してくださり、次元の向上もとても速いものでした。仕事の環境も同じ状態でした。当時、とてもバランスがとれた環境で仕事ができたため、それは、迫害が開始された後でも作用し、仕事場からの圧力はほとんどなく、その上、同僚や上司はみな私に一定の力を貸してくれました。

 その後、迫害された厳しい環境の中、慈悲心は強大なパワーとしてはっきりと現れてきました。

 2008年、私は労働教養所に不当に連行されました。「専管大隊」に着くと、すぐに当時最も凶悪な班長の部屋に配置されました。当日の酷暑の中で、私は昼の時間帯に、外に立たされる体罰を受けました。翌日、彼は私に殴りかかってきました。彼は繰り返し邪悪な質問をして、私が正当な答えをすると、彼は右手で顔を激しく殴り、しかも力がとても強く、私は何度も腰掛けから地面にふっ飛ばされました。合わせて20数回殴られて、歯から出血しました。

 その時、私は恐れることもなければ、彼に対する恨みもありませんでした。私は思いました。彼はとても凶悪に見えますが、しかし、彼は人間である以上、善の一面を持っているはずです。私が心から、本当に彼のために誠心誠意であれば、また、私が十分な善意を示せば、私は彼の心を動かすことができ、彼を変えられると思いました。その後、彼ら、邪悪に手先として使われている人たちは、「専管」大隊に選ばれた時、洗脳担当の警官から集中的に講義を受け、法輪功を誹謗中傷する虚言を詰め込まれ、また試験も受けなければならないことを知りました。彼が私をどんなに罵倒し、侮辱、折檻しても、機会があれば、私は必ず彼に法輪功の真相を伝えました。私は彼の心の奥にほんの少しの善の念があることに気付きました。他の人がいる時、彼は(密告されるのを恐れている)聞かれるのを恐れていますが、彼が1人の時、私は法輪功の真実と私達の修煉後の心身の変化を詳しく話しました。彼が聞いた後、顔にはもとの邪悪な表情がなくなり、「そう言えば、法輪功は悪くないではないか、俺はもうこれ以上聞かないよ、さらに聞いたら、自分の方がおまえに「『転向』させられそうだ」と言いました。

 それからは、彼は二度と私を殴ることはありませんでした。チャンスがあれば、私は彼に積極的に道理を話し、彼も次第に厳しいことを言わなくなり、ただ、洗脳班の警官が巡視に来た時だけ、彼は私の座る姿勢を注意して、わざと大声で叫んだりしました。それ以来、彼は次第に大法弟子に同情するようになりました。その後、彼は他のチームに移動しましたが、他の大法弟子が絶えず彼に真相を伝えたため、彼は最も凶悪だと言われた警官から、もう悪事を働かない警官になりました。ある大法弟子から聞きました。彼は彼が担当する部屋の大法弟子にもう二度と以前のようなことをしないと保証したそうです。

 しばらくの間、彼は私に会う度に、いつも「おまえは俺を恨んでいるだろう」と聞きました。私は「なぜ恨むのですか? 私はあなたに素晴らしい未来があるよう望んでいますよ」と答えました。これらの強い信念の大法弟子の振る舞いを見た彼は、「この階には、将来本当に円満成就できる人がいる」と言ったそうです。共産党に洗脳され、手先として悪事を働いた1人の悪人が、大法弟子の慈悲によって真心を呼び起こされました。

 表面的に見れば、その厳しい環境の中で、私達大法弟子は目立つこともなく、とても弱者のように見えますが、しかし、私たちは大法弟子です。私たちは修めた慈悲心を持っており、すべての邪悪を解体する力を備えています。

 慈悲は正神が備えている広大な力だと深く、深く体得いたしました。

 「何も求めず」について体得したこと

 文/中国の大法弟子

 私は一昨日、最近の仕事の成果が良く、一つの大きな問題を解決したため、上層部から表彰されました。しかし、なんだか不安を感じ、一日中、とても苦しくて、しかも、はっきりした原因が分かりませんでした。前々から、直接の上司が私の仕事を認めてくれず、それに対して、私は心が塞ぎ、気分が晴れませんでした。仕事の内容の関係で、直接の上司は私が活動報告をする時、毎回ほとんど何も言ってくれませんでした。私は自分があまり仕事をしていないと誤解されるのを心配し、面子をつぶされると思いました。また、自分の能力を存分に発揮できず、重視されていないとも思いました。一人の大法弟子として、会社で仕事ができなければ、悪い影響をもたらし、会社の同僚に真相を伝えることに不利だと思いました。そのため、心の中はずっと重苦しく、すっきりしませんでした。しかし、この度、各方面から、十分に褒められたのに、なぜかまた不安を感じるようになりました。

 自分もおかしいと思いました。これは個人の損得ばかりを気にかけているのではありませんか! 私は以前いつも、人の批判を平然として受け入れられると言っていました。しかし、人に褒められたら平然としていられない、かえっておどおどしています。この状態だと、私は本当に他人の批判を平然と受け入れられるでしょうか? 私がもうすでに気にしていないことに対しては、平然としていられるかもしれませんが、しかし、とても気にしていることに対しては、そうではないのではありませんか。実は、私は「名誉」に対して、時には結構気にしているのです。この表彰に対する不安も、この虚名を守ろうとして、この虚名を失いたくないのです。

 私は小さい時から、よく褒められてきましたが、それを振り返ってみると、私は常人の中で非常に良くない習慣を身につけていることに気付きました。称賛の中で、時には、賞賛に値しないことをやりたくない、賞賛されるべく行動し、賞賛のために生きているような、偽りの習慣を身につけてしまいました。しかも、それはとても深く、深く、ずっと隠されていて、とても気づきにくいものでした。

 今日、ある大法弟子の文章を読みました。その文章の中で、「劣等感と思い上がりは実は同じことだ。なぜなら、それは功利の心で比較しているからだ」と書かれていました。「事をはかるは人にあって、成功するかどうかは天のみぞ知る」(人事を尽くして、天命を待つ)と言いますから、どうして比較する必要があるのでしょうか? 本当に自分の悟性は低すぎます。

 実は私は着実に働けば、心に恥じるところがなければ、どうして他人の見方をこれほど気にする必要があるのでしょうか。まして、結果はどうであれ、求めて手に入れるものではありません。真相伝えに影響を与えることを心配すること自体が障害です。以前、公の場で話す時、いつもとても緊張していました。それはうまく話せないことを心配したからです。どうして、正々堂々とできないのでしょうか? 自分が一番、衆に優れていることを望んでいて、大法の名に隠れて、名を求める心があったからです。この中には、名利心、功利心、嫉妬心が含まれています。分析したら、本当に驚いてしまいました。

 私は師父が説かれた「為して求めざれば、常に道中に居る」[2]を思い出しました。心がぱっと開きました。もともとそんなに緊張し、そんなに疲れる必要がなく、何も考える必要はありません。ただ常に法に溶け込めばいいのです。大道は至簡至易です。

 「法の暗唱」について体得したこと

 文/中国の大法弟子

 今日、法を暗唱する際、突然師父がおっしゃった相生相克の理に対して、より深く体得しました。師父はおっしゃいました、「皆さんはすでに相生相克の法理を知っていますが、恐れる心がなくなれば、あなたを恐れさせる要素も存在しなくなります」[3]

 私の理解では、三界内の物質は常に正、反、両面があり、単独で存在することはできません。他人が私に対して邪魔をする時、私が彼の話に返事をしなければ、心を動かさなければ、私が心の中で、それが存在していると思わなければ、或いはその存在を認めなければ、私の心にそれが無ければ、そのような対立に出会うことはありません。対立は必ず双方があって、もし一方が存在しなければ、対立も存在しません、存在する理由はなくなります。修煉の法理から言えば、本当に心を動ぜず、その境地に達すれば、再び妨害が来ることは許されません。

 私は勤め先のある上司によい印象を持っていません。特に、その人の物事に対する対処の仕方を不満に思い、党文化のものが多すぎると思いました。その上、相手も私に不満を持っており、私が目障りだと思っているようです。これは人為的に対立関係を作っているのです。もし、長くなれば、この対立はますます確実なものになります。

 今日、法を暗唱していた時、この考えがとても恐ろしく、とても危険だとやっと気づきました。私は再びこのように人に対応することができない、このように済度すべき衆生に対応してはいけない、他人の不足を忘れるべきだと思いました。もし、私が本当に心の中でそのことを忘れてしまえば、彼の私に対する恨みはまた存在するでしょうか? もし、私が本当に徹底的に忘れてしまえば、彼の私に対する不満は、恐らく思おうとしても思わないでしょう。私が彼に対する慈悲の善念(工夫を凝らしての有為ではありません)を持っていれば、時間が経てば、善の場が彼のところに止まり、彼は同化され、私も友好的に変わるでしょう。私はこれが道理であると思いました。法理はすべてを制約しています。

 以前、私にはとてもよくない習慣がありました。それは他人の心理、他人の考え、他人の情緒を推測することが好きだということでした。わざとこうしている訳ではないのですが、しかもあまりにひどくもありません。しかし実際に、それは知らないうちに、時には他人の情緒に動かされてしまうことがあります。これは実に良くない習慣です。私はいつでも明るくて、周囲を、他人の心を明るくしてあげなければならないはずです。

 勤め先のある人は、何をしても駄目で、責任感もなく、誰ともうまく協力できません。どの部門も彼に不満を持っているようです。私との付き合いの中で、一応トラブルはないのですが、しかし、我慢し難いことがしばしばありました。時にはみんなの前で彼の愚痴を言ったりして、それもとても自然なことだと思っていました。彼は確かに悪すぎます! 私は彼に三退させました。しかし、彼の党文化の要素はまだたくさんあり、時には彼にとても不満を覚えました。

 今日、それを思い出して、自分の修煉は本当にあまりにも欠けていると思いました。どうして彼はいつも私の目の前でぶらぶらしているのでしょうか? 覚者まで修めるには、心は比類のないほど寛容で、広くさっぱりしていなければならないはずです。私は誠意をもって、彼を助けることができるのです。それには度量と慈悲が必要です。

 法を暗唱して、やっとこれらのことを理解しました。頭の中に法が詰っていなければ、常人の理に妨害されやすくなります。私は法を暗唱することの重要性を本当に体得しました。心に法があれば、常人の理、常人の情緒に妨害されず、世間の風潮にも流されないのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/5/282255.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/16/143268.html)
 
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