文/日本の大法弟子
【明慧日本2014年3月15日】私は2011年8月に修煉を始めた日本人の修煉者です。大阪城公園の近くに住んでいて、朝の6時頃大阪城公園を散歩していたら、ある同修が天守閣付近で静功をしていて、その前に法輪功を紹介するパンフレットが置いてあったので、家に持って帰って読みました。そして、『轉法輪』をインターネットから無料でダウンロードして、印刷して読みました。大体1週間くらいかかりました。
当時は、それまで働いていた会社が倒産して失業中でした。私は大学の4年生のときにキリスト教の洗礼を受け、10年くらい信じていましたが、『轉法輪』を読み進めていくうちに、興味深いがよく意味が分からないところがたくさん出てきました。気になるところはノートに書き留めて、後で読み返してみよう、3~4回読めば大体の意味がわかるのではないか?と思い、一通り読み終えました。はっきりとは分からないが、ものすごいことが書かれている、と思いました。偶然にもとんでもないものを発見してしまった! と思い、友達や近所の人に教えて、ぜひ読んでみるように勧めました。とりあえず、インターネットで無料で読める関連書籍は一通り全部目を通してから、良し悪しを判断してみようと、日本法輪大法学会のホームページの書籍欄の本を上から順番に読み進めていきました。数日から数週間で読めるものと思っていましたが、想像以上に量が多く、迫害前後の説法などを読んでいくと、今ものすごい歴史が展開されているのではないかと驚きました。そして、圓満成就するには、煉功は必ずしなければならないと分かり、2011年8月下旬頃から、功法紹介ビデオをダウンロードして毎日見よう見まねで覚えていきました。
だいたい覚えた後、功法紹介ビデオでは、站樁と静功は時間が短いので、煉功音楽をダウンロードして長い時間行おうとしましたが、動作を指示する言葉が中国語で、私は中国語が分からないので日本語の煉功音楽がないか、日本法輪大法学会にメールで問合せしてみました。そうすると返事があり、近所で煉功場があるので一緒に煉功したらいいとのことだったので、連絡を取り合って、2011年10月に初めて、法輪功の修煉者と一緒に煉功しました。独学でやっていて、動作がよく分からないところを親切に指導してくれ、不安がなくなりました。
その後は、週1回の集団煉功と学法を継続しながら、就職活動をするといった毎日を過ごしていました。それまでは銀行に勤めていましたが、経験を活かせる仕事は求人が少なく、応募しても採用されず、なかなか就職することができない状況が続きましたので、2012年4月、やむを得ず近所の老人ホームで介護の仕事に就くことになりました。慣れない仕事で、給料も安く、肉体的にも辛く休日も少なく、夜勤もあり生活のリズムが乱れがちでしたが、学法と煉功を継続し、仕事が休みの日は、真善忍国際美術展や神韻の活動に参加してきました。
2013年の神韻公演が終わった頃、毎週土曜日に行っている学法後の交流である同修から、転職を勧められました。「あなたは別の仕事に変えたほうがよい、毎週土曜日の交流にあまり参加できず、旧勢力の按排に従っている。小心翼々な人になってほしくない。頭も顔もいいのだからこれまでやっていたような仕事に就くべきだ」と言われました。同修は私から見ると、以前から業力に対して敏感で、看護師や介護などの仕事は、病人と肌と肌との接触があるので避けるべきだと思っているようでした。それに、1年前に転職活動をした経験から、そのような仕事に就くのはなかなか大変な事で、それが全然わかっていない、と思いました。しかし、師父の法身が同修を通じて私に悟らせようとしているのかもしれないと思い、転職活動を始めました。
同修から転職を勧められるまでは、修煉の道は師父の法身が按排してくれたものであって、自然に任せることを重んじるべきだと考えていました。一旦介護の仕事に就くことができたのだから人為的に転職するべきではない、と考えていました。給料が安く、社会的地位の低い仕事という点に関しては、苦しい環境の中だからこそ高い次元まで修めることができる、また、釈迦牟尼は在世中に乞食をしていたのだから、さらに条件の良い仕事を探すということは執着だと思っていました。
転職活動中は、これまでと変わりなく介護の仕事をしながら、できるだけ集団煉功と学法に参加して、休みの日は真善忍国際美術展の当番をして、その合間に求人を探して応募書類を作成し、面接を受けるといった毎日で、かなり忙しく、なかなか大変な日々でした。転職活動自体は1年前よりもかなり感触がよかったです。書類選考を通過して面接に進む割合がかなり高かったです。かなり条件のよい求人もあり、面接では執着心が出てきて、なんとしてもこの会社に採用されたい、そのために自分を少しでも良く見せようと頑張りましたが、面接官からは逆に、経歴もたいしてよくないし、これといった技能もないし、あまり良くないという判断をされ、かなり辛く感じたことがありました。
どうしてこんなに辛い思いをするのだろう? 修煉者として間違った状態にあると感じました。名利や地位をどうでもよいものと見ることができれば、あなたは煩悩にさいなまれることも、立腹することもなく、永遠に心が穏やかな状態でいることができる、という師父の言葉を暗記していましたので、自分に執着があるからだとすぐに分かりました。無為であればどんなことに遭遇しても辛く思うことはないでしょう。しかし、師父も人を済度するという有為のことをされています。そもそも私はなぜ転職活動をしているのか? 法を実証するうえでより良い環境を得るためです。2013年6月の明慧ネットで「察し難い『求める』心を取り除こう」という交流文章の中で、「大法弟子は衆生を救うことを第一に考えるのは間違いありませんが、しかし、金を儲けるから利益心があるとは限らず、ある程度の経済力は安定した生活を維持し、大法を実証するにも役立ちます。邪悪の経済的迫害に言い訳を提供してはなりません。師父は私達が金持ちになるのを恐れず、私達にお金があればあるほど、衆生を救うプロジェクトは展開しやすくなり、世間の人々に真相も伝えやすくなります」と書いてあるのを読み、自分のやろうとしていることは間違っていないかもしれないと思いました。転職できるかどうか、それは縁であり、師父の按排であるので、その後は、結果を考えずに雑念を捨て、自分が修煉者だと自覚して正々堂々と面接に臨んだところ、まもなく内定を得ることができました。土日祝日が休みで、給料も上がりました。内定を得た後、それは良いことだったのか、悪いことだったのか、まだ完全には確信が持てなかったのですが、交流の中で他の同修により、衆生を救うには時間もお金も必要だと言われたので、良いことだったと確信が持てました。
今回の転職活動を通じて、法を正す時期の大法弟子とは何か、旧勢力の按排を認めないというのはどういうことか、についての認識が高まりました。
その同修との交流の後、『二〇〇三年旧正月十五日の説法』を読み返すと、旧勢力は個人修煉を何よりも重要であると思っているが、衆生を救い済度し法を実証することは個人の修煉をはるかに超えていることだ、とはっきりと説かれていました。各地での説法はそれまで3度読んでいましたが、ここまで明確に理解できていませんでした。どうしてでしょうか? 内に向けて探してみました。興味本位で読んでおり、自分はまだ新しい学習者だからあまり関係ないと思っていたのだと思います。今回の出来事を通じて、私に不足していた、真剣に法を学ぶ姿勢が克服できたと思います。法を正す時期の大法弟子として行うべきことをしっかり行っていきたいと思います。また、修煉の同修仲間との交流によって自分の向上が促進され、感謝しています。師父が与えられた、集団で法を学ぶ環境を大事にしていきたいと思います。
(二零一三年日本法輪大法修煉体験交流会で発表)