生死の念を放下できれば 新たな世界が広がる
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ーー病業の難関にいる同修と交流する

文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2014年9月16日】師父は次のように説かれました。「人と神との区別は、ここにあります。生死を放下できればあなたは神になり、生死を放下できなければあなたはやはり人間です」[1] 「もしあなたが病気のことばかり考えるその心を捨てられないのなら、われわれは何もしてあげられないし、どうすることもできないということを強調しておきます」[2]

 大法弟子は神に向かう生命として、生と死の試練を乗り越えなければなりません。迫害されても生死を放下して、法を実証することができる大法弟子は、病業の難関が少ないのです。もちろん、すべてそうではありません。自分が持つ業力の大きさや、修煉の道を正しく歩んでいるかどうかということ、また旧勢力の妨害や、迫害等の要素もあります。

 病業の難関にいる同修が、自分のすべてを師父にお任できるかどうかが重要だと感じます。死ぬも生きるもすべて師父にお任せすることです。生かしてくださいと師父にお願いする気持ちも不要です。この考え方そのものは病気を放下できない表れでもあります。病気を放下できなければ、あなたは人間に過ぎません。人間には、生、老、病、死がつきものです。もし、病院に行くという考えがあれば、それは師父を信じていない気持ちではありませんか? あなたは正々堂々と、自分の力が及ぶ限り大法弟子が為すべきことをし、そして自分に、なぜ生きたいかを問いかけて見てください。本当に法を実証して、衆生を救い済度するためでしょうか? 死を恐れている心がまだあるのでしょうか? 人間の空間を重視するのは人間だけです。神は決してこの世の生死を重く見ることはしないでしょう。

 なぜなら、神は、人間の死というのは一枚の洋服を脱いでしまうに過ぎないという道理をよく知っているからです。何を恐れることがあるでしょうか?  100パーセント師と法を信じさえすれば、乗り越えられない関門などあるでしょうか。そして、あなたが本当に法に則っていれば、誰があなたを動じさせられるでしょうか? 病気の虚像はとっくに消え去ってしまうでしょう。

 生死の問題に言及すれば、大法弟子が不当に拘禁され、迫害され、一部の同修が断食で迫害に抗議したのは、本当に生死を放下したのです。

 2000年の冬、私は北京天安門広場で横断幕を掲げ、法を実証しました。そのため、北京の朝陽市留置場に不当に拘禁されました。同修達は相談して、断食で迫害に抗議することを決めました。その時、私の心性はまだ基準に達していませんでしたが、しかし、全体に協力して、食わず飲まずでした。その時、私はちょうど生理が来ていました。ふだん生理が来る時、私はいつも喉が渇き、水を多く飲んでいました。しかし、水を飲みたいという人心が、断食を実行した後に、私に喉を渇かせ、唇の皮を破らせ、舌を硬直させました。頭がはっきりしない中で、私の目の前にいろいろな果物や飲み物が浮かんで来ました。断食を始めて3日目、警官は朝の3時頃私達を起こして、列を作らせ、外に出て行くように命令しました。私は立ち上がった途端、目の前が真っ暗になり、そのまま気を失いました。意識が戻った時、私はすでに監獄室の廊下にいて、同修に支えられていました。同修は私に蒸しパンを一個くれて、車に乗ってから食べてくださいと言いました。車に乗ってから、私が蒸しパンを口に入れようとした時、1人の警官が私の額を一発殴って来ました。殴られた私は、頭がギンギンと鳴り響き、蒸しパンも地面に落してしまいました。警官は、「待っていろ。お前を途中で下ろして、生き埋めにしてやる。昨日、俺たちは2、3人を生き埋めにしたぞ」と言いました。私はそれを聞いて、「勝手にしなさい、これらの悪人はなんでもやる。生き埋めにされても、大法弟子は何ともない」と思いました。あの当時、正念とは何か、よく分かりませんでした。しかし、もしかしたら、私のこの一念が正念だったのかも知れません。それは私の死に対する恐怖を放下させてくれました。私はとても平然としていました。死を恐れなければ、恐れるものは何もありません。その一瞬、私は喉も渇かなくなり、お腹も空かなくなりました。私の体はぽかぽかして、とても気持ちが良いと感じました。その素晴らしい感覚はとても言葉で表現できません。生死の念を放下すれば、死もあなたから遠ざかってしまうのです。

 二度目の断食は2001年を迎える前の数日間でした。私は洗脳班に連行され、その後、多くの同修達も連行されてきました。私は率先して断食し、同修達と交流して、多くの同修達も断食に加わりました。警察は私がリードしているのに気付き、私の部屋を変えました。その結果、新しい部屋の同修達も断食を始めました。彼らは仕方なく、私を独房に入れました。今回の断食は調子が悪いという感じがなく、口の中にいつも甘い汁が出てきて、いつも唾液を呑み込みました。また、いつも通りにトイレに行きました。警官達は、何も飲まず食べないのに、なぜ普通の人と同じようにトイレに行くのだろうと、とても不思議に思っていました。もっと不思議なのは、断食を開始して4、5日後、医者が私達の身体検査をしに来ましたが、診断結果はすべて正常で、体重が減っただけでした。彼らも不思議だと言っていました。大法弟子が正念を持って正しく行った結果、世間の人に法輪大法の超常さと素晴らしさを見せることができました。断食をして6日目、大晦日の昼頃、すべての大法弟子は釈放されました。

 今回の断食後、私は、本当に生死の念を放下したからこそ、この奇跡が起きたと悟りました。少しの体験ですが、病業の関の中にいる同修達に少しでもお役にたてれば幸いです。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『転法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/9/9/297200.html)
 
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