明慧法会|田舎・農村に行き 真相を伝える(一)
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文/黒竜江省の大法弟子

 【明慧日本2014年9月28日】敬愛する師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 私は今年51歳になります。師父の法を正すことが急速に進展するにつれ、私も個人修煉から師父の法を正す流れに入り、法を正す師父に手伝い、衆生を救う神聖な使命を果たしています。

 一、村で衆生を救う

 迫害が始まったとき、私は資料を配り、シールを貼り、脱退を勧めました。最初は住んでいる所から伝え、学法チームの同修と共に伝える経験を積んだ後、自分はまだ若く、他の同修は年配で遠くに行けないため、この地域は彼らに残し、自分は遠い所へ行こうと思いました。そして、私は都市の公園、ショッピングセンター、街、建築現場、バス停、病院、駅などの所で面と向かって真相を伝え始めました。私は以前、都市に住んでいたので、そこには知り合いやクラスメイトがたくさんおり、彼らを救うべきだと思いました。こうして私は毎日、車に乗って行き、街で衆生を救いました。

 この間、私も同修と共に村へ行ったり、村の商店へ行ったり、家ごとにドアをノックして衆生を救いに行きました。街には同修がたくさんいるため、街中の衆生のほとんどが真相を聞いており、私は辺鄙な村へ行き、全面的に衆生を救おうと考えました。2011年に村の市場にはたくさんの人が集まると、ある同修に言われました。人々は買い物に忙しく、人も多いため、伝えにくいと言われていましたが、できないはずはないと私は思いました。大法弟子は各世界の王や主であり、すべては大法弟子の言うとおりになるのです。そこに人がいれば、そこは大法弟子が衆生を救う環境に変わり、すべては大法弟子を中心に変化するのです。村の市場の衆生を救う環境を開き、この道を同修のために作らねばならないと私は決心しました。

 村の市場で面と向かって真相を伝えたいと思い、翌日、いつも一緒にいる同修に話すと、お互いに同じことを思っていたらしく、市場のある日は2人で村の市場で衆生を救いました。

 道中で発正念をし、衆生が救われることを邪魔するすべての邪悪を排除し、師父にご加護を求めました。その日の午前中1時間ほどの間に、2人で40人以上脱退させることが出来たことを嬉しく思い、同時に当地域の同修にやる気を与えることが出来ました。

 最初は当地域の同修に発正念して貰い、私たち2人で話していましたが、後に彼女も参加し、このように、何度も繰り返すことにより、その地域に良い環境を開くことができました。

 ある時、同修と真相を伝えているときに、当地域で運転ができる同修が通りかかり、我々を見て、加わってきました。それからはよく知っている同修を何人か集め、真相を伝えている同修たちと交流しました。市場での真相伝えの効果が良く、皆が行きたがっており、こうして市場で面と向かって真相を伝えるチームが成立しました。運転のできる同修が車で私達を市場まで連れて行き、2人一組で、周りの村の市場もリストに入れて、どの日にどこで市場が開かれるのか調べて、その日に衆生を救いに行きます。たとえ、厳寒酷暑であろうと、大雪の日であろうと、強風大雨であろうと、私たちは継続してきました。

 冬、市場で2時間立ち、往復の時間も加えると、半日以上かかるので、足は凍傷したかのように痛くなり、私達は師父にご加護を求め、風邪を引く人は1人もいませんでした。こうして、私達は2年間協力し合い、たくさんの衆生を救いました。ほとんどの場合、一回で100人から200人救い、道中で発正念を続けました。近い時でも15キロほど離れており、遠い時は250キロもあります。帰りは皆が車の中で、主に『論語』と『洪吟』を暗唱しました。すべての過程は法に同化し、これ以上ない幸福を感じました。

 この中で、私たちは常に時間を作って全体で交流しました。師父は「私が思うには、大法弟子の前にあるのは着実に修煉するという道のみであり、ほかの道はありません」[1]と説かれました。我々は自分を修め、互いに協力し、全体に同化し、自我を捨て、大法弟子の使命などについて交流します。交流する前に法を勉強し、発正念をしました。

 師父は次のように説かれました。「異なるやり方は、法が運行している中での有機的な分担と圓容の方式ですが、法の力は全体として現れてくるのです」[2] もう二度と脱退の人数のために自我に執着しません。衆生が救われることが我々の使命なのです。自分たちが歩んできたところに慈悲を衆生に残していきたいです。冬は寒く、時には家で休みたいと思う時がありますが、師父の「初心を忘れずに修煉していく」[3]という言葉は、常に我々に精進するように励ましてくれています。

 私たちは翌日の朝7時に出発する予定でしたが、朝起きて、雨が降っているのを見て、1時間延長すると運転する同修に電話しました。そうすれば、村の市場に来る衆生が増え、救える衆生も増えるのではないでしょうか。すぐに、時間通りに出発すると同修から電話が来ました。このような天気なのに時間通りなのか、と不満に思いましたが、すぐにこの考えが間違っていることに気づきました。私は衆生を救う基点に立って物事を考えていないのではないでしょうか。すぐにタクシーに乗って集合場所に行きましたが、10分遅れ、同修たちは車の中で私を待っていました。私はすぐに遅れた原因を皆に伝えました。すべては師父が按排しておられるのです。すべては衆生が優先なのです、神でさえも衆生を救うために道を開けなければなりません。我々はここで引いてはなりません。大法弟子は後に引いたりしないのです、と運転の同修に言われました。自分と同修の差を見て、宇宙でさえ法によって正されており、大法弟子は今の常人社会での主役なのです。同修といるときは、真に「びてしてしてすところるはなり」[4]なのです。私は自分の内に向けて探しました。大法弟子はどんなことがあっても動じてはなりません。自分の考えがこれほど狭いとは思いませんでした。衆生が救われることを邪魔するすべての悪の勢力を解体しながら、自分の不満の心、言い訳をする心を排除しました。車を降り、目の前に広がる大勢の人々を見て、もし私達が遅れたら、師父が按排してくださったここの衆生たちは救われる縁を失うのです。私は自分の責任を感じ、涙が溢れそうになりました。

 (続く)

 注:

 [1]李洪志先生の著作:『各地の説法十一』「大法弟子とは何か」

 [2] 李洪志先生の著作:『精進要旨(三)』「学習者の文章に対する師父の評注」

 [3] 李洪志先生の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 [4] 李洪志先生の詩:『洪吟』「実修」

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2013/11/17/282154.html)
 
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