文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年3月29日】山さん(仮名)は古い弟子です。最近、彼の業を消去する過程が重く、食欲や力がなく、よく嘔吐し、全く元気がありません。内に向けて探したり、発正念をしてもあまり効果が見られません。ある日、彼と交流する中で、無気力な彼を見て、私は悲しくなりました。ここ数年、彼は多くの苦労を嘗め、法を実証する中でいつも積極的に動き、多くの感動的で感心なことをしてきました。弱くなっていく彼の体と顔を見て、私には一念が生じました。彼の業を少し受け持ってあげましょうか? 少しだけです。彼がここで止まらず、前へ進められればいいのです。
この一念が浮かんだ途端、私は心配にもなりました。同修の問題を解決してあげる前に、私自身が先に倒れてしまうかもしれません。師父が『轉法輪』の中でおっしゃったことを思い出しました。「自分自身の白い物質を使い果たしても、苦しみに耐えることによって黒い物質は白い物質に転化することができます。それでも足りなければ、修煉しない親族や友人の代わりに、罪や過ちの償いをすることによっても功を伸ばすことができます。しかし、それはきわめて高い次元まで修煉した者に限られます。常人としての修煉者は、親族や友人の代わりに罪や過ちの償いをするような考えがあってはなりません。業力が大きすぎて一般の人ならそれで修煉できなくなります。わたしがここで話しているのは異なる次元の理です」。私は自分が師父の仰おっしゃった「極めて高い次元まで修煉した者」なのかと自問しました。もしそうでなければ、この一念で自分をダメにしてしまうかもしれません。もしそうであれば、どれぐらい負担すべきでしょうか? そして、この一念の背後に、自分にどのような動機があったのでしょうか? 自分の為ですか? 同修間の情ですか? いくら考えても、何をどうすべきかは決められませんでした。
迷いの中、私は再び山さんの家を訪ねました。その時、ちょうど山さんはグループ学法を終えて、グループ内の二人の同修がまだ帰っていませんでした。そのうちの一人の同修はこう言いました。「山さんの背後にいる邪悪を排除するために発正念をする際、私の頭の中に、このような声の響きがありました。『あなたは彼のために業を肩代わりできますか?』私は『できません。あなたたちの仕業なのに、なぜ私が負担しなければならないのですか』と答えました」。もう一人の同修は、「私が発正念する際、頭の中に同じ声が聞こえました。『彼の代わりに業を受け持つことはできますか?』私は『私は受け持ちません。あなたたちが大法弟子を迫害し、大きな罪を犯しましたので、あなたたちがこの業を負担すべきです。大法弟子は師父が按配された道しか歩みません』と答えました」
この時、横に立っている山さんの妻(同修)が言いました。「ここ数日、私は彼の苦しい様子を見て、彼の業を少し肩代わりしようと考えました。しかし結果として、彼を助けるどころか、自分が丸一日寝込んでしまい、吐いたり、熱を出したりして、ベッドから起きられませんでした。私は自分の間違いに気づき、さっそく師父のお助けを求めました」
交流を通じて、皆が共通認識を得ました。この件は非常に厳粛なことで、修煉者はこのような念を起こしてはいけません。なぜなら、師父は弟子の一人一人に念入りに修煉の按配をされていて、それは秩序正しいものですので、私たちは人心によって自分にトラブルを招いてはいけません。師父はおっしゃいました。「旧勢力は以前非常に綿密に按排しました。他人のために何かを受け持つことは愚か、自分自身のものでさえ、あなたたちはそれに耐え難いのです」[1]
法の中から分かったのですが、師父以外、誰が他人の業を受け持つ能力があるのでしょうか? 自分の業力でさえ師父によって消されているのに、どこに他人の業を負担する力があるのでしょうか。たとえ同修が漏れによって妨害されても、私たちに出来るのは、同修が内に向けて探すことを手伝い、法理に沿って心性の向上を図り、同時に迫害を否定するよう発正念するしかありません。絶対に同修の業力を受け持つ考えを持ってはいけません。一見、それは同修を助けることには見えますが、実質は求める心です。それが容易く旧勢力に隙を乗じられ、自分にさらに大きなトラブルを引き起こしてしまうかもしれません。
自分のわずかな悟りですが、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地法での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」