同修の皆さん、小さい事にも注意を払おう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年6月14日】今回、師父は説法の中で次のようにおっしゃいました。「修煉の中で、ごく小さなことでも、気に留めず、結局大きな問題を生じることもあります」[1]。私の身近でも、小さなことによって迫害を受けてしまった同修が多くいます。これは本当に割に合わないことです。

 漸悟の修煉状態にいる同修Aさんは、弛まず三つのことを実行しています。常人の中で修煉し、功がまだ開いておらず、彼女も心性を保てない時があります。ある日、彼女は息子とトラブルになり、「あなたは本当に嫌な子だね」などの言葉を息子に返し、「罵られても返さない」[2]という法理に反することをしてしまいました。結局、旧勢力に隙を乗じられてしまい、彼女は警察に連行され、3カ月監禁されました。

 一部の同修は、監獄に入ったなら、そこの衆生を救い、法を暗記すれば良いと思っていますが、実のところ、私たちは内に向けて探し、自分の問題を正しく見つけなければ、旧勢力はそう簡単に退きません。無理矢理に押し付けられたその難を乗り越える事は、そう簡単ではないのです。なぜなら、私たち一人一人に対する旧勢力の按配は違います。彼らは私たちの個々の忍耐力の限界もよく知っているのです。師父は私たちの心性のレベルをもとに修煉の道を按配して下さっており、そこに少しでも多くの難が加われば、私たちはそれを乗り越えられず、時には落ちてしまうこともあります。もし、旧勢力に迫害の口実を捉えられ難を押し付けられたら、この多くの難と業力をどうやって乗り越えるのでしょうか? 一部の同修がなかなかうまく修煉の道を歩めない理由も、これと関連があるかも知れません。その同修は大法をきちんと実証できておらず、大法に損失を与え、罪を上塗りすることになってしまいました。また監獄の中でも正しい言動を取っておらず、小さなことによって自分の修煉に汚点を付けてしまったのです。

 同修Bさんは多くの関を乗り越え、風雨の中で修煉の道を歩んできましたが、結局子供への情を放下できず、重い病業に見舞われ、一カ月ほどで世を去りました。彼女は内に向けて探し、同修の多くも彼女を手伝いましたが、結局、誰もが彼女の問題の所在を突き止められませんでした。後に、師父は彼女の子供たちに、彼女が子供への情を放下できていないために世を去ったことを分からせて下さいました。本当に惜しいです。彼女は長年修煉し、多くの犠牲を払いましたが、結局、こんな小さなことで、旧勢力に大きく隙に乗じられてしまいました。

 私自身も、大きい事においては気を使っていますが、小さい執着はあまり気に留めていません。例えば、口を厳格に修めず、修煉者に相応しくない言葉を口にしたり、常人が気に入るものを見たりして、同修と一緒にいるときも、同修のことに口を出し、自分を顕示し、睡眠を貪ります。それらの事が良くないと思い、気を引き締める時もあるのですが、やがて「小さいことだから、大丈夫」という考えがでてきて、その執着を放任してしまい、よく同じミスを繰り返し、結果として旧勢力によって、師父と法に不敬な念を押し込まれます。内に向けて探すことによって、初めてそれらの良くない思想が消えますが、また小さい執着だと思っているため、なかなか気に留めず、それらの思想を消した後にも、また同じミスを犯します。小さい執着は大事に至らないという考えも旧勢力によって強引に押し付けられたのでしょうか? 小さい執着でも本当に断固として排斥し、整理しなければなりません。 

 数日前、私は神韻芸術団の某アーティストが投稿した明慧交流文章を読みました。この文章によると、彼女は発正念を重視しておらず、上の空で発正念をした結果、足首を痛め、危うく公演に参加できなくなりそうでした。幸い、彼女はすぐにこの原因を突き止め、無事に公演に参加できました。精神を集中せずに発正念すれば、これだけ大きな事故に繋がることに私はショックを受けました。実際、中国大陸において、大多数の同修が精神を集中せずに発正念しています。しかし、これを問題だと認識しているのは何人いるでしょう。私たちはこれが小さいことだと思っていますが、しかし、旧勢力はそう思っていません。だからなかなか大陸での迫害の厳しさが軽減されません。

 私の身近に、すごく精進しているお年寄りの修煉者がいます。彼女も小さいことで迫害を招いてしまいました。ある日、主人に罵られ、彼女は汚い言葉で一言返しました。その翌日、警察が訪ねてきました。また別の日に、彼女は同修と一緒に真相を伝えに出かけ、いくら伝えても、誰も三退しませんでした。彼女は「もう限界です」と一言口にしました。そして再びトラブルに遭ってしまったのです。

 また、迫害を求める念も、迫害を招いてしまいます。私にはこのような経験があります。以前、私の心の中には、「もし捕まえられたら、こうなるのではないか」という念がありました。その直後、私は連行されてしまいました。しかも、獄中の状況は私の想像と全く同じです。この事はまさに師父の言う通り、「人心によって鬼を招いてきてしまうこと」[3]でした。

 もう一つの状況は、同修間の妨害です。これも一見、小さいことですが、その結果は厳重です。例えば、精進していない同修同士が情を重んじ、食事に誘ったり、雑談したり、ショッピングに出かけ、常人のような言葉を口にし、常人の行動を取るような現象を目にしますが、これらはその一つです。また他にも、党文化の影響が強く、精進していない同修が他の同修を妨害する手段として、相手を褒め倒すことがあります。その同修は「いかに良く修めているか、根基がよいか、法を良く暗記しているか、法理を良く悟っているか、多くの衆生を救っているか、威徳が高いか、若く見えて能力があるか」などを口にします。褒める所がなくなれば、次は、「あなたのこの服は本当にきれいだ、あなたの作ったご飯は本当に美味しい、あなたは本当に能力があって口がうまい、あなたの家庭の条件は本当に良い、息子は本当に賢くて、娘も有能だ、子供達は本当に親孝行だ、あなたの家は本当に大きい、あなたは学歴が高く、家庭環境も素晴らしい」などと言い出します。口を開けば人を褒めておりこの事は本当に相手に与える害が大きいと思います。

 同修と接触する度に、私は同修間の褒め言葉が聞こえてきます。これは同修に対する犯罪だと思います! なぜなら、褒められると直接その同修の顕示心、歓喜心をひき起こしてしまう恐れがあるからです。もし、褒められた同修がうまく自分をコントロールできなくなり、このような執着心が動けば、修煉の道から逸れてしまうでしょう。この地区にも、そのような例がありました。本来よく修煉していた同修がとことんまで落ちてしまったり、世を去ったりして、結果はひどすぎます。今後、そのような情況に遭遇する同修の皆さんは、どうか、それを止めて下さい。それによって修煉環境がダメになってしまってはいけないからです。お人よしになってはいけません。無責任な褒め言葉を口にしないで下さい。また同修の皆さんには、そのような行為を制止する責任もあると思います。

 また、精進している同修に頼って、個人の修煉問題を解決しようとする同修がいます。例えば、家庭の関、子供への情、色欲心、同修間のトラブルなどは個人修煉の関です。いつまでも他人の意見や悟りを求め、自分はどうやって向上するのでしょうか?

 同修の話を法と見なせば、間接的に、同修に法に対して罪を犯させ、法を乱す状況を作ってしまうことになります。結果として、双方とも罪を犯すことになり、旧勢力に迫害の口実を与えてしまいます。また個人修煉の面において、多くの同修は他の同修を熱心に助けようとし、それが良いことだと思っているようです。どうか、そのような面子を重んじる心や同修への情を放下して下さい。双方にメリットがないどころか両方とも向上できなくなります。

 今回の説法で、師父は、海外でメディアに携わる同修は、修煉状態がほぼ常人の次元まで落ちてしまっていることに触れられていますが、実際、中国の同修も、小さい事に気を配らず、どう修煉すべきかが分からず、常人の次元まで滑り落ちた人も多くいます。ここで歯止めをかけなければ、同修同士のこのような環境を正さなければ、どうするのでしょうか? この事は誰にも責任があります。特に協調人は、これ以上個人修煉の問題をグループ学法に持ち込んで、皆に意見を出させ、解決を求めないようにして下さい。

 同修への修煉の妨害は罪が大きいのです。それによって、旧勢力に迫害された事例は多種多様です。雑念が多く排斥できない、病業、命を失う、監禁される、家庭のトラブルが長引く、経済的困窮、仕事でのトラブルなどなどです。これはでたらめな事を言っているのではありません。

 私自身も一時精進できず、上記のような形で、ある非常に精進している同修を妨害しました。そうすると、私の頭の中に多くの邪悟の念を押し込まれ、自分もそれが良くないと知っていながら、排除できず、発正念したり、法を暗記したりしても、排斥できませんでした。苦痛の中、私は法理の中から分かりました。旧勢力は私を利用し、精進している同修を落とさせ、私をも駄目にしようとしていたのです。法理からそれが分かり、すぐに私は自分の状態を調整し、翌日、状況が一変しました。私は頭がすっきりしてきて、以前私を息苦しくさせていた邪念も消えました。その後、私の修煉状態は大きく変わり、一直線に上り始めました。もし私が続けて他人を妨害していたならば、結果は恐ろしいものになったでしょう。

 何度も躊躇した後、これを書き出すことにしました。これが厳重な問題だと思い、同修の皆さんと交流し、この問題を重視して欲しかったのです。個人の次元に限りがあって、必ずしも正しいとは言い切れませんが、同修達のご参考になれば幸いです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『精進要旨三』「すぐに目覚めよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/6/1/310269.html)
 
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