同修への情も情である
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情を取り除いてようやく慈悲心が現れる

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年4月11日】同修が「同修への情」について交流文で言及しました。私はそれを見て、心を動かされました。今まで私はなかなか関を乗り越えられず、困惑していました。法理がはっきりしない原因の一つは、つまりこの「同修への情」にありました。ここに書き出して、同修と交流したいと思います。

 情の現れ方にはいろんな形があります。かつて私は情への執着が淡泊だと思っていましたが、実は意識できていなかっただけでした。例えば、迫害が始まる前に、同修と付き合っていたとき、情を帯びていました。苦労とも思わず、同修たちと毎朝早く起きて煉功して、昼に法を広めに行きました。同修たちは大法の本も常に持ち歩いていて、少しでも時間があれば法を勉強していました。私はこのような同修たちを見て、敬服していました。しかし、同修への情が混じっていたとは気がつかず、考えたこともありませんでした。

 それから迫害が突然やってきました。みんなで一緒に法を実証しに行こうと約束していましたが、そのときになって、敬服していた同修たちは私に「理智を失っている。常人の状態に符合していない。甚だしく法を破壊している」と指摘し、誰も来なくなりました。突然私は一人になって、周りに誰もいなくなりました。私は予想外なことに驚き、とても大きな心理的なダメージをうけました。同時に原因はなんなのかが理解できず、疑問の答えが見つかりませんでした。その心境は、それまでの私の法理への認識が明確でなく、着実な修煉が足りなかったことを物語っていました。

 しかし、迫害に直面して、後悔しても間に合いませんでした。大きな恐怖心で、私もよく行う事ができませんでした。

 それから、同修の中に邪に悟った人、修煉をやめた人、重い病業が現れ亡くなった人、そして交通事故で亡くなった人、精神病を患った人など様々な人が現れました。このような状況で、私は第三者として自分の心がどう動くかを見られていました。

 今振り返ってみると、迫害が発生した当時、私の反応はどのくらい正念から由来したのか、どのくらい情によるものだったのかを、再び法の要求で測ってみると、相当不純だったことが分かりました。同修との交流も、話の内容の多くは法に基づいてなくて、ほとんど情の現れでした。そして、よく修煉できた同修たちの予想外の反応に対して、私は理解できず、感情に走ってしまい、師父が説かれた「修煉とは、すなわち自らを修めることですが」[1]を完全に忘れてしまっていました。

 その頃、同修への情を放下すべきでした。しかし、私は法で測るのではなく、長い間情で考えてしまったのに、法に基づいていると思っていました。情の妨害で法への認識を妨げられていました。一方、法を実証するために、一部の同修はひどく迫害され、たくさん苦を嘗めました。多くの貢献をしたにも関わらず、重い病業にかかったり、修煉をやめたり、甚だしくは亡くなったりする人もいました。それを見て、私はまた大法を100%信じることができなくなり、大法を疑いました。

 師父は「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです」[2]、「一つの関を乗り越えられなかったり、強すぎる常人の執着を放下できなければ、逆の方向へ行ってしまうかもしれません。」[3]、「一つ一つの難関に、修煉して向上していくか堕ちていくかの問題がかかっています」[2]と説かれました。

 私が一つの大きな関に厳粛に対処できていないのに、次の関がまたやってきました。そして、難は積み重なってどんどん大きくなり、最後に乗り越えられないほどの至難の関になりました。教訓は本当に大きかったのです。

 関を乗り越えられなかった原因の一つは、すなわち同修たちが遭遇したことに対して、法を持って認識できず、人心で見ていたからでした。そのため、私が敬服していた、私より遥かによく修めた同修たちがだめになってしまった時、私には無理だと思っていました。肝心な時、法で自分に要求するのではなく、人間の観念に従ってしまいました。また同修が受けた苦痛を見て、心が動じてしまい、法を思い出すことができませんでした。実は師父はすべてを説法の中で説かれていました。

 師父は「修煉の中であなたは修煉しなければならない部分を修煉し、耐えなければならない部分を耐える必要があります。あなたにとって危険はありませんが、修煉とは何か、どのように修煉するのかを認識しなければなりません。修煉の中で悟ったものがあり、向上があって、これこそ修煉なのです」[4]と説かれました。

 以前、同修の間で「比べて学び比べて修す」[5]と言えば、それは誰の座禅が長いかとか、誰の煉功の時間が長いかとか、誰が1日『轉法輪』を何講拝読できるかということを指していました。私も同修が偉いと思って、そうできるように努力していました。今考えると、修煉に対して何も分かっていなかったのです。昇華を感じたこともありませんでした。師父が説かれた、修煉とは何か、どう修煉するのか、に対して、本当に分かっていなかったのです。そんなときもし誰かから「修煉が何かを分かっていない」と言われたら、容赦しなかったでしょう。なぜなら私は毎日睡眠時間が少なくなるほど、修煉一筋だったからです。

 周りの多くの同修も以前の私と同じだったのでしょう。表面的には精進しているように見えていましたが、真にどのくらい向上していたのでしょうか? 師父は「修煉の中で悟ったものがあり、向上があって、これこそ修煉なのです」[4]と説かれました。以前の私は「修煉していなかった」と言えるでしょう。

 明慧ネットの同修の交流文を読んで、2009年や2010年に修煉を始めた同修でも、修煉して自分のどの心を取り除いたとか、どの面の執着が淡泊になったとか、昇華した後の神聖さと玄妙さを感じたとか言っています。それを見て、羨ましいのと同時に悔しかったのです。同修より数年も早く法を得たのに、修煉への認識と法への悟りは同修とぜんぜん比べにもなりませんでした。

 今、同修から誰々が1日どのくらいの法輪功真相資料を配ったとか、どのくらいの人を三退させたとか、またどのくらいの大法の仕事をしたとかを聞かされると、敬服はしますが、以前のように崇拝したり、盲従したりしません。自分がこなせる範囲で、穏やかに法を実証し、心性を向上させています。より平常心で対処できるようになりました。

 同修への情も淡泊なりました。何があっても大法の法理で自分に要求し、遭遇する出来事を法で測っています。

 大法弟子の修煉の環境の中に情を混じえると、とても危険です。それを取り除けないのは、やはり着実に修煉していないからで、情と気づいていないからです。

 以上、法に基づいていないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「猛撃一掌」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「大法を盗んではならない」
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/3/326128.html)
 
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