文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年10月31日】最近夫はいつも私に対して、これもダメ、あれもできていないと文句を言うので、私は心の中でとても不満でした。「家事は全て私がやっているのにまだ文句を言っている。これからはたくさん家事をやるのをやめよう。また言われるのが嫌だから、やってもやらなくても良いことはできるだけ避けたほうがい良い」と思いました。また同修のAさんが、大法の真相を伝え、人を救い済度することに対して、あまり厳粛に行っていないと感じ、善意を持って教えて上げたのにAさんは弁明し、その後また会うとき、私に話をかけてくれなかったので、私はまた内心で不快を感じました。
ある年配の同修は長年街で大法の真相を伝え、とてもよく行っているのに、長い間足の痛みが治らず、ときにはもうこれ以上は続けられないと弱音を吐いていました。私は善意を持って内へ探し、心性を向上させ、自らの空間場をきれいにして、正念を持って人を救い済度し、人心で対処してはならないと注意して上げたのに、その同修はきつい言葉で反論し怒ってしまいました。その後さらに他の同修に私に対する不満を言いましたが、相手の同修にも制止されたので、さらに逆上しました。同修はこのことを私に伝えてくれました。そのとき私は、これからは他人のことを注意するのをやめよう、皆それぞれ各自修煉して、自分の心性を向上し、多くの人を救えばそれで良いと思いました。地元の同修の間で、真相を伝えることが良くできていると皆に認められている同修Bさんがいます。Bさんは自分でたくさん学法し、修煉体験の交流文章をたくさん読んで多くの人を救えばそれで良く、例え言ってもあまり効果ないから他人のことを注意したり指摘したりしたくない、と私に教えてくれました。当時私はなるほどと思いました。
しかしその後、私は一体どうして自分はこれらのことに出会ったのかと心を静め、冷静に考えるようになりました。
師父は次のように説かれました。「トラブルに遭ったら皆、内に向けて探すべきだと私は多くの場で皆さんに幾度となく話しました。しかし、トラブルに遭ってやはり内に向けて探すことのできない人がいます。それを認識することのできる人がいますが、それを考えることさえしたくない人もいます。甚だしい場合、自分が修煉の人であることを完全に忘れています。これではまだまだ不十分だと思います。あなたと学習者の間や職場、常人社会のいかなる環境においても、学習者同士の間、或いは学習者と責任者の間に何かのトラブルが現れたら、あなたは自分の原因を探そうとしなかったのです」[1]
私は内へ向かって探すどころか、かえって間違った教訓を吸収し、自分をずる賢い人間に変えようとしているのです。内へ探してみたら、自分は他人に指摘されたくない心があり、きつい言葉で言われたくない心がありました。他人に傷つけられたくない、自分を守る、自分を庇うという自我に対する執着を捨てて向上すべきと思いました。また同修の問題に気付き、注意したとき、同修の反感を買ってしまい、自分が相手に怒られるのを恐れ、敢えて言わないのは私心ではありませんか? 師父はこのように要求していません。師父は問題が起きたら自分の内へ探し、善意を持って同修に教え、たとえ聞き入れてもらえず、怒られ不満を言われても放下すると私たちに要求されているのです。修煉する以上、師父の言うことを聞かなければなりません。
私は座禅して、同修と自分の空間場にある良くないもの、お互いを隔てる要素、他人に指摘されたくない心を取り除き、心から同修と自分自身が早く向上するよう願っていました。意外なことに、再びAさんに会った時、自分の夫にも人を救うことに対して厳粛に行っていないと注意されたので、今後気をつけると言ってくれました。年配の同修に会ったとき、当時自分の言葉がきつく、正しく対処出来なかった、許してくださいと恥ずかしげに謝ってくれました。
隔たりが消えました。その後、夫は私に対してあれこれ文句を言わなくなりました。これらのことが起きたのは他人の不足を見せるためではなく、全て私の向上のために按排されたことであり、私を向上させる要素がその中にあるからです。危うく師父が苦心して按排されたチャンスを見逃すところでした。
これ以上に気をつけなければならないことは、法をもって師とし、真相を良く伝える同修Bさんの話をそのまま自分の修煉に当てはめてはならないことです。それは間違った教訓を得る言い訳にすぎなかったです。今振り返ってみると、Bさんの話が正しいと思ったのは、Bさんの話が法にかなったからではなく、他人に指摘されたくない心にかなったからです。トラブルに遭ったとき、間違った教訓を得て、自分が傷つけられないよう守り、人心を隠そうとすることは、修煉のチャンスを見逃し、師父が苦心して按排されたことに背くだけなのです。
内に向けて探すことはなんと素晴らしいことでしょう。修煉者がそれぞれ異なる次元において、真に善悪、良し悪しの分別がつき、法理を正しく悟り向上することができます。師父の慈悲なる済度に感謝を申し上げます。
個人の修煉体験ですが、不適当なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『米国西部法会での説法』