法の中に溶け込む
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文/北京の大法弟子

 【明慧日本2017年2月18日】師父の慈悲なる済度に感謝いたします!

 母が法輪大法を修煉し始めた時、私はまだ6歳でした。あまりにも幼かったため、母が集団で法を勉強したり、煉功したりする時に、ただ隣で遊んだり、時には動作を真似たりしていただけでした。正式には修煉していませんが、あのころの穏やかで素晴らしい光景は今でもはっきりと覚えています。

 正式に修煉を始めたのは2013年でした。その頃はちょうど大学を卒業したばかりで、人生に対してたくさんの困惑を感じていたのです。しかしながら、幸運なことに私は大法の修煉の道に入り、それからは世界で最も幸せな人間だと思えるようになりました!

 私は80年代に生まれた一人娘です。修煉する以前の私は強引で、頑固な性格をしており、自分勝手で他人の意見に耳を貸さないどころか、いつも相手に反抗しようとしていました。

 高校時代、私が通っていたのは模範高校で、礼儀作法や身なりなどには特に厳しく要求されていましたが、私はこれらのルールを無視して、髪の毛を染めたり、大きいサイズの制服を着たり、鮮やかなヘアピンを付けたりと自分勝手な行動をして、先生や学校の事など少しも考えず、これこそ「個性」であり、若者特有の性格であると思っていたのです。

 大学に上がっても私は依然として自分の事だけを考えていました。また流行を追いかけるのが好きで、海外旅行や、ショッピング、カラオケ、今年はやっているファッションやテレビドラマなど、興味を持たないものはありません。

 これらの娯楽にすっかり溺れていましたが、本当の喜びや幸せを感じたことは一度もなく、「今度はどこに行こうか」「次は何を食べようか」「次回はあの服を買おう」などと、どんどん底なしの欲求に浸食されていきました。しかし、いざ、これらの欲望が満足された時、感じたのは喜びではなく、まるで心が空っぽのように何かが足りない気がしたのです。

 修煉を始める

 大法の素晴らしさと師父の慈悲により、私の人生観が根本的に変化しました。修煉を始めたこの3年間では、毎週集団学法に参加して、皆がいる環境の中で師父の『轉法輪』や各地での説法、経文、『洪吟』などを真剣に勉強し、また、法会への投稿や連行された同修の救援活動、そして、去年から始まった江沢民訴訟にも参加しています。

 3年間の修煉の中で、自分自身がまるで生まれ変わったかのように、以前とは全くの別人になりました。自分の意見に執着しなくなり、相手の話をしっかり聞くようになったのです。以前は、自分のためと分かっていても、やはり上辺だけ相手の話を聞くふりをしていて、全く聞く耳を待ちませんでした。相手の話を聞いて、自分の言動を直せば、それは自分自身が間違っているということを意味し、情けないと思っていたからです。しかしながら、良く考えてみれば、意見してくる人も本当は自分のために言っているのであって、面子ばかり重んじると、結局傷つけるのは本当に自分の事を大切に思っている人たちなのです。娘としては親孝行をするのは当然なので、両親と接する時もできる限り言い返さずに誠心誠意に彼らと交流するようにしています。また、自分の意見にそぐわないことに遭っても、いつまでも自分の意見や考えなどを主張するのではなく、常に法理で自身を律するようにしています。すべての出来事には因果関係があるので、いつまでも自分自身に執着していれば、物事をさらに難しくさせるだけです。

 「 すべてのことには因縁関係があります。人間はどうして人間でありうるのでしょうか? それは人間には情があり、人間は情のために生きているからです。肉親同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにしても情が重んじられ、情を切り離しては何ごともできません。やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています」[1]と師父は説かれました。

 私たちが経験してきた楽しいことも、悲しいことも、苛立つことも、全て「情」からきており、それは「私情」というものなのです。いつまでも執着している私情を放下すれば、それに続いてくるのはいかなる場合でも相手の立場になって物事を考える心なのです。去年、私は幸せな結婚をしました。夫と知り合ってから結婚に至るまでの間、私は常に両親からのアドバイスに耳を傾けていました。「父母の言いつけ」が婚姻の中でどれほど重要なことなのかを理解しており、そして、母もまた修煉者なので、視点が常人と異なるからです。夫と接するときは常に法の導きに従い、家では家事や料理、夫の世話など妻としてやるべきことをしっかりやるようにしています。共働きなので、帰宅が遅くなりますが、それでも私はできる限り早く家に帰って、夕飯の支度をします。休みの日は夫と一緒に家事を終わらせてから、別のことをするようにしています。

 夫の両親とも非常に仲良くしています。両親に喜びをもたらすのは子供として当然の義務なので、時間があれば、映画を見に行ったり買い物に出かけたりするのではなく、お互いのどちらかの実家に帰るようにしています。私も夫も一人っ子ですが、結婚してからはトラブルを起こすことなく、「男は仕事、女は家事」というようにそれぞれやるべきことをやり、お互いを尊重しています。師父は 「陰陽の学説によれば、女性は柔であるべきで、剛になってはいけません。男性は陽に属し剛であり、女は陰に属し柔であり、剛と柔を合わせると、きっと調和が取れるはずです。現在男性が女性をいじめたいのではなく、社会が腐敗堕落したからです」[2]と説かれました。

 師父の教えにより、女性のしなやかさと夫の理念に従うということは、弱さを現しているのではないことが分かりました。しなやかさは女性が備えるべき美徳なのです。ですので、家の中の大小さまざまなことはすべて夫を中心にし、私はただ理性的に彼を支えていればよく、これは私が自分に決めた家庭での立ち位置です。強制は女性にとってあってはならない性格なのですから。

 もちろん、普段の生活においては様々なことに遭います。例えば、以前、あることに関して夫と喧嘩になりました。言い争いになった瞬間、自分に非はなく、むしろ、自分は女の子だからこれくらいは譲ってくれてもいいはず、と心が苦しくなり、良くない心理が一気に出てきました。そして、これにつられてどんどん悲観的になり、言葉遣いも荒くなったのです。

 どうしてこのようなことになったのかと疑問に思った時、突然ある念が頭の中に浮かび上がってきました。「私は大法弟子です。このような些細な事をいつまでもうじうじと悩んでどうするの!」。そして、心がだんだんと落ち着いていき、「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」[1]という師父の説法を思い出しました。今回の事は内に向けて自らの原因を探り、また、他人の事を考えることができるかどうかを試す試練ではないでしょうか。これに気づいた私は冷静になり、すぐに夫に電話をかけて謝りました。もし、大法を修煉していなければ、今回のトラブルがいつまで続くのはともかく、自分の方から謝るなど、昔の私ではとても考えられません。

 私は修煉してまだ日が浅い大法弟子ですが、大法がもたらしてくれた素晴らしさと楽しさは計り知れません。「法」の導きがあり、師父が常に見守ってくださっているので、この上ない幸せに包まれています。例えトラブルや嫌なことに遭っても、それは一時的なことにすぎません。なぜなら、私には大法があるのです!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法』「ニューヨーク座談会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/24/338092.html)
 
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