肉食からあらゆる享受に対する執着を考える
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年2月19日】しばらく前に、突然、また肉を食べられなくなりました。考えて見れば、このような状態は、自分の修煉の中で、何度も繰り返して現れてきました。

 肉を食べられない期間中は、食事の時間になると頭の中はいつも肉料理のメニューばかり浮かんできて、その時やっと、自分の肉に対する執着心がまた現れ、しかもそれに対して、自分がまったく意識していないことが分かりました。

 どうしてこの心を捨てたはずなのに、また時が経つと現れ、現れてくるとまた捨てるを繰り返しています。どうしてこの心をきれいに全て捨てられないのでしょうか。困惑している中、私はちょうど『轉法輪』「第七講」「肉食の問題」を習いました。師父は「ですから歴代の高僧も、肉食という問題自体が肝心ではなく、肝心なのはその心を捨てられるかどうかにあり、執着心さえなければ空腹を満たすために何を食べてもかまわない、ということを知っていました」[1]と説かれました。「空腹を満たす」との文字がはっきりと目に飛び込んで来ました。執着心を放下した時、食事は私にとって、単なる空腹を満たすことに過ぎないのだと悟りました。しかし、その執着心は単なる肉食の問題だけなのでしょうか?

 物欲の強い現代社会の中で、常人は飲食することに刺激や満足を求め、それを生活の楽しみの一つとして美化しています。小さい時から大法修煉をしてきた私は、これまで人を誘惑する「飲食」にずっと抵抗してきました。しかし、社会人になってからのこの数年間、食欲に負け飲食することに、知らず知らずのうちに深く陥っていることに、自分はまったく気づいていませんでした。例えば、会社での会食、同級生のパーティー、結婚式、さらに、普段、同僚や友達と一緒に週末に美味しいものを食べ歩くのも、どれもとっくに単なる「空腹を満たす」ためにという域を超えていました。食事をすることは自分の生活を享受する(味わい楽しむこと)一部となり、食欲を放任してしまった自分は、すでに常人の誘惑にしっかり乗ってしまいました。特に今のレストランは売上を上げるため肉料理が多く、そのような状況も私の肉食に対する執着心をさらに刺激し、繰り返し、繰り返し生じさせる一因となっていました。

 時には、同修と一緒に外食する時、私はいつもレストランを探して、定食あるいはご飯に炒めもの料理1品を注文していました。年配の同修が外食の出費を惜しむのを見て、私はいつも外に向けて探し、同修はケチすぎる、利益心が重いと思い込み、同修の前でさらに飲み物やデザートなどを追加注文し、自分の「利益に対する執着の無さ」を見せようとしました。今から考えて見れば、その享受する心に動かされた行為はなんと馬鹿げたことでしょうか。それなのに、自分は同修たちよりもよく修めていると勘違いしていました。私と同世代の若い同修の中には、皆このような問題を抱えているのではないでしょうか。私達若い同修達が食事をする時、少しも遠慮せず、おかしいともまったく思わないで、まず快適なレストランを選び、その日に食べたいものを注文し、食べ終わったら飲み物やデザートまでさらにいただき、それに費やす時間は少なくとも1、2時間たっぷりおしげもなくかけてしまうのです。周りの常人は皆そうしているから、それも当たり前のようになり、私達の生活の一部分となりました。

 日々の生活からいかに多くの幸せを享受するかというこの享受する心は、少しずつ私の生活を浸食しはじめました。電化製品に関しては、パソコン一台では足らず、さらにノートパソコンが欲しくなり、さらにIPADも欲しくなり、それでも物足らないで、携帯電話をさらに2代、3台と欲しくなるのです。どうしてこれもあれも欲しがるかというと、疲れたらベッドに入る時、ネットにアクセスしたい、ノートパソコンを使いたい、歌や動画を見る時はIPADを使いたい、微信やQQでお喋りしたいので携帯電話も数台必要だ、これらはすべて、最も迅速に要求を満たしたいからです。これらのものは私の怠惰な心を強め、ネットによりいっそう深く依存し、そこから抜け出せなくなります。こうして、ネットで遊んでいる時間は、瞬く間に過ぎ去り、大切な時を失わせているのです。

 物質的なものを享受することは、買い物好きとしても現れました。興味のあるものをたとえあまり必要がなくても買いたくなります。例えば、洋服や室内装飾品など、常人のブランド品に対する嗜好ほどではないのですが、経済的に許す限り必ず一番良いものを買います。その理由としては、高価なものは長く使えるし、品質がよいからです。時間があれば 「タオバオ」(中国のネット通販サイト)を見たり、ショッピングモールに行ったりします。数日前、同修が書いた『霧霾の中国と灰に埋もれたポンペイ』(きりばい・スモッグ)を読んで、ポンペイの古都に住んでいた人々は衣食住や娯楽を極度に享受したため、ヴェスヴィオ火山噴火により火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くし、滅亡をもたらしたことが分かりました。そして、自分のこの気づかなかった享受する心の恐ろしさを改めて強く感じました。

 師父は法の中で 「小坊主は苦しみに耐えれば耐えるほど功を開きやすいのですが、大和尚は楽をすればするほど功を開きにくくなります。ここに業力転化の問題があります」[1]と説かれています。1人の修煉者としては、高い基準で自分を律しなければなりません。常人のように生活を享受すると、自分の修煉する意志を見失い、自分の怠惰な心や安逸心、享楽を追い求める心を強めるのです。私と同じような執着心を持っている同修達にも、ぜひともこの問題を重要視していただきたいと思います。くれぐれも自分の生活の中のことを一つでも放任しないように注意しましょう。それは修煉の中の大きな漏れに繋(つな)がりかねないからです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/2/13/343005.html)
 
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