文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月19日】同修Aさんと一緒に消耗品を買いに行きました。店主は笑顔で 「あなた方は相方を変えましたか?」と言われ、次に行った時には、またニコニコしながら 「お二人は仲良しだね」と言われました。それは師父が常人の口を借りて私達を励まして下さっていたのです! かつて、私達の間にはかなり大きな隔たりがあり、しかも、その状態が数年間も続いており、こんなに打ち解けた関係になったのはつい最近のことでした。本日はその隔たりをどう取り除いたのかの過程を書き出して、皆さんと分かち合いたいと思います。
同修Bさんの家でAさんと知り合いました。私から見れば、Aさんは性格が少しひねくれていて、些細な事ですぐ不機嫌になり、そのため、普段、彼女と話をする時、私はいつも気遣いながら言葉を慎重に選び、さもなければ、彼女は急に機嫌が悪くなり、とにかく、彼女と一緒にいると私はいつもビクビクしていました。例えば、Aさんから言い出した考え方に対し、私が自分の意見をほんの少しでも話すと、彼女は突然黙って何も言わなくなり私と話を交わそうとせず、見下しているような表情をして、そのため、私はとても気まずくなり、いつも困惑していました。このような事が何度もあって、彼女に対して反発する気持ちが生じ、たまに彼女の言動を思い出すと胸のあたりに何か詰まっているような感じがして、その嫌な気持を抑えても抑えきれず、消そうとしても消せなくて、「このようにされたら、私も自ら面倒な事を起こさなくても良い」と思い、その後、彼女に会ってもほとんど喋らず、彼女を敬遠しました。
この状態は正しくない、この対立を解消したいと心から思いました。そこで、私は進んで彼女を私の家に招き共に法を学ぼうと誘いました。しかし、それによって私達の関係がすぐに改善されたわけではありません。ある冬の寒い日に、彼女は私の家に入って来て、「下でBさんを随分待ちましたが、Bさんがとうとう現れず、1人で上がって来ました」と言いました。私達の堅苦しい関係は依然と変わる気配がなく、心と心の間に何か隔てている物質が存在しているようで、どうしても溶け込んだ関係にはなれませんでした。一度、私達は夜に一緒に法を広めに行こうと約束しました。しかし、出発する前、突然風が強くなり、そして、雷が落ち、稲光が走り、大雨が降ってきました。その雨で私達は予定を変更せざるを得ず、私の家で法を習う事にしました。しかし、彼女はイライラして落ち着かず、気持ちはとっくにBさんの家に飛んで行きました。
対立は表には出ていませんが、しかし、奥深いところの隔たりはまったく取り除かれていませんでした。「Aさんを嫌う理由はいったいなんだろうか」と思い、Aさんとの付き合いの過程を振り返ながら、Bさんが「あなた達2人とも強すぎるのよ」と言ったことを思い出しました。これが原因なのでしょうか、あるいは歴史的に恩讐があったのでしょうか、とにかく心の中ではとても苦しんでいました。しかし、私はこの現状をどうにもならず、とても無力感を感じました。私達の問題は解決されないまま数年もズルズルと続き、今日まで引きずってきました。
昨年の冬、Cさんと知り合いました。彼女は素朴で、温厚篤実(おんこうとくじつ・温かで情が厚く、誠実なさま)で、何事でも内に向けて探し、大きな事も小さな事も自分を修め、そのため、皆は好んで彼女と交流しました。「なぜ皆はCさんのことが好きなのだろうか」と思いました。「やはり、彼女は美しい玉石のように、透き通ってとても純粋だからかな」と思いました。この事を通して、自分がCさんとのギャップがはっきりと見え、そして、Aさんとの関係はやはり内に向けて探さず、自ら修めていなかった自分に原因があると思いました。Aさんにはひねくれた所があるのは確かですが、一方、私は気性が激しく声もでかくて、よく常人の理で是非を言い争い、同修が私のことを気に入らないのは、自分にはこのような人心があったからではないのかと思いました。そして、トラブルを避けようとしても真に修めなければ、その物質が自ら消えてなくならないことも悟りました。
私は進んでAさんに「私の第一印象はどんなだったのですか」と聞きました。彼女は笑いながら「特にないわよ」と答えました。他の同修が帰ってから、再び彼女に聞いたら、少し恥ずかしそうに「言い出すとあなたを傷つけるから、言わないでおきます」と答えました。私は「大丈夫です、ぜひ言って下さい」と心からお願いしました。彼女は「じゃ、はっきり言いましょうか。あなたは汚いです。何か事があれば自分の人心を修めようとせず、具体的なことだけを論じ、自分は何でも正しい、何でも素晴らしいと思い込み、他の人に話すチャンスを与えません。だから、同修からも真の意見を引き出せないのですよ」と言いました。
Aさんのこの言葉には本当に考えさせられました。私は常人の中で人に頼まない、人を助けないという習性があって、そのような観念は自分をしっかりと包み込み、固く束縛し、そのため、人には自立的で、何に対しても無関心で利己的な印象を与えていました。一方、同修から見れば、自我に執着しているように見えてしまうのです。Aさんのこの話を聞いて私は突然分かりました。Aさんのご機嫌がどうのこうのと言うより、自分のメンツを重んじる心を修めなければならないと悟りました。なるほど、長年自分はずっと外に向けて探し、修煉の真髄を理解していなかったのです! Aさんの今日の言葉は、私の問題をズバリと指摘してくれました。率直な意見を言ってくれたAさんに、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
Aさんからも私から彼女の問題点を、是非指摘してほしいと誠意を持って聞かれました。彼女は今心性の関門を通り抜けている真最中で、とても苦しんでいることが分かりました。そこで、彼女に「あなたは同修に対する情が重すぎて、甚だしきに至っては、姉妹の情になっているのではないのか、そして、何か問題に遭うと、トラブルを起こした当事者の同修よりも執着している所があるのではないのか」と指摘すると、彼女はとても驚きました。「そのことに自分がまったく気づいていないし、しかも、誰にも言われたことのない問題です。大きな執着を見つけて本当によかった」と彼女は言いました。私達は客観的な立場に立って、お互いの奥深く隠れていた執着を指摘し合いました。こうして、汚くて深く隠された、ずっと触れられたくない執着心は根っこから抜き取られました。私達がお互いに心を開いたその瞬間、あの硬くてぶ厚い石のような隔たりは、瞬く間に消えてなくなりました。
この修煉の過程を振り返って見れば、やはり自分が着実に修めていなかったからで、このような結果を招いたと思いました。師父は「すべてのことには因縁関係があります。人間はどうして人間でありうるのでしょうか? それは人間には情があり、人間は情のために生きているからです。肉親同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにしても情が重んじられ、情を切り離しては何ごともできません。やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません」 [1]と説かれました。師父のこの法に対して、より深く体得しました。私達2人とも、情の泥沼に深くはまり込んでいました。
師父に感謝します! 大法に感謝します! 歴史上にどんな恩讐があっても、大法はそれをすべて善の縁に変える事ができるのです! 私はきっとこの貴重で神聖な縁を大事にし、同修達とこれからも共に精進し、共に邁進して行きたいと思います!!
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』