天目による悟り : 最後まで修煉を貫く重要性
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年6月21日】昨日、私は天目を通じて天につながる大通りが見え、大通りの右側に1列の蓮花座が置かれており、すべての蓮花座の上空には王冠が浮かび置かれていました。蓮花座は異なる色や形をしており、蓮花の層の数もみな違い、構成される粒子のミクロの次元も違っていました。そして、それぞれの王冠も多種多様に大きく異なっていました。

 その時、数人の同修は蓮花座に座り、すると、王冠が自動的に降りてきて同修の頭の上に被さり、その同修たちは満足げな様子を見せ、引き続き前進しようとしなくなったのを見ました。さらに、ある同修は蓮花座に座って王冠を頭につけ、他の法門のものを読み始めた途端に、急に万丈の断崖から落下したのを見ました。もちろん、大多数の同修はこれらのことを気にも留めずに、大通りに沿ってまっすぐ進んでいきました。彼らは自分がどんな果位を得られるのか、どの境地まで修めることが出来たのか、あるいはその境地がどんな現れなのかなどを気にせず、求めたりもしていません。「道端の景色」をも名残惜しがらない同修たちは非常に早いスピードで修めており、師父は大通りの果てで微笑みながら彼らを待っておられるのを見ました。

 この一幕を目にした私は深く震撼しました。修煉者として私達は師父の要求に従ってこそ、初めて最後に辿り着くことができると思います。途中、もし私たちが現状に満足し、道中の景色に気を取られてしまえば、誓約を果たすことは不可能になってしまいます。

 修煉の過程で、私たちは執着心をどんどん取り除いていくにつれて、よく修めた方面が増えていき、法の基準に達していれば、佛家のさまざまな現れが出てくるのはごく自然なことです。しかも、多くの同修は世に下る長い歳月の流れの中で、異なる次元の衆生と深い縁を結んだかも知れません。今生の修煉過程で、それらの衆生からかけられる期待や尊敬は、私たちのさらなる精進への励ましであって、それによって傲慢な人心を引き起こし、甚だしきに至っては大法から離れてはいけないことです。

 ここまで書いて、最近、ある同修から聞いた話を思い出しました。この同修は師父の講習会に直に参加したことのある数人の古い同修を知っています。彼らは高度な漸悟状態にあり、自分の世界を見ることができるなどと吹聴しています。彼らは自分がすでに圓滿成就できると感じ、他の宗教に移り、同時に師父が法を正されていることや三つのことの実行に抵抗を感じています。

 これらの教訓は違うように見えますが、一つの共通点があります。それは、自分がかなり「できている」という感覚の下で現状に満足し、あるいは奇抜な意見を出して目立ちたがる心境にあることです。

 修煉の過程でさまざまな試練に出会うことがあります。これらの試練に直面してどう対応していくかは、私達が最後まで修煉を貫くことが出来るかどうかに関わります。真に師父の要求に従ってやり遂げていけば、必ず各種の困難と障害を乗り越えることが出来ると思います。いかなる自我への執着も危険です。これらの教訓は各地で見受けられるので、今後の戒めとしましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/17/349548.html)
 
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