幸運を得たいという願いがあってはいけない
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文/ 中国の大法弟子 心渐明

 【明慧日本2017年7月15日】昨日、「天目で見た・茫々たる苦海」という修煉文章を読み、多くの感慨が生じました。今朝座禅をするときに、突然悟りましたので、みなさんと一緒に交流したいと思います。

 文章の中に「蠱」(こ・伝説上の毒虫)と「惑」という二種類の生命について言及されていましたが、私はあることわざ「人心を惑わす」を連想しました。もし私たちが修煉の過程で、すべての人心を取り除くことができれば、『蠱』と「惑」の働き場所はなくなるでしょう。私たちは円満成就する前の一刻でも、わずかでも人心があれば、あるいは、深く隠された人心があるなら、せっかく苦労してもあと一息のところで失敗する可能性があります。

 交流のとき、ある同修は「今、あまり良くない思いがあっても構わないですよ、円満成就のとき、師父は私達のすべての悪いものを取り除くことができます」と言いました。確かに、師父はこのような説法を説かれたことがありました。しかし、同修の話にはなんとなく違和感を感じましたが、どこがまちがっているのかは分かりません。私にも以前から同様の考え方がありましたが、どこかが違うと思っていました。実は、これは射幸(偶然に得られる成功や利益を当てにすること)を望む心理状態です。自分の執着心を隠すためのいいわけです。放棄したくない人心、あるいは、しっかり修めていない自分のために、理由を探しています。これは巨大な人心の一つです。

 私の個人的な理解ですが、もうすぐ円満成就できる修煉者のために、師父は、私たちが常人の中で修煉できるように、このような修煉空間を設けてくださいました。つまり、私達が持っている常人の思想はこの常人社会で衆生を救い済度するために持たされました。しかし、円満成就の瞬間に必ず取り除かれます。

 師父は『轉法輪』の中に「あなたは常人の中で、さまざまな良くない思想をすべて取り除かなければなりません。そうしてはじめて上がって来られるのです」と語られました。なので、円満成就の基準に達していない私達はしっかり修めましょう。師父は何回も修煉の厳粛さを語られ、少しのいい加減でも、射幸を望む心理など、抱いてはいけません。射幸を望む心理を取り除き、漏れがない境地にまで達しましょう。

 個人的な浅い悟りですが、適当でないところがあれば、ご指摘ください。

 合掌

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/20/349558.html)
 
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