安逸を追求することは極めて危険である
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文/中国の青年大法弟子

 【明慧日本2018年2月3日】私は国語の教師です。ある講義で、欧陽修さんの「憂慮と苦労は国を強くし、安逸と享楽は自らを滅亡に招く、これは自然の理である」を話すとき、私自身は「憂慮と苦労は国を強くし」という意味は理解できますが、「安逸と享楽はなぜ自らを滅亡に招くのか」について理解ができませんでした。

 私は90年代以降に生まれた者です。幼い時から両親の至れり尽くせりの加護の下で、ほとんど苦労したことがなく、安逸の追求が当たり前のことであり、自然の理でもあると思っていました。大法の修煉をするようになると、安逸の追求は良くないことだと分かりましたが、根本からはまだはっきりと認識しておらず、この数年間、自分の修煉を緩めてしまいました。

 ある日、師父の説法「この身体を持つことによって苦しみを嘗めさせられます」[1]が私の頭に浮かび、「なるほど、人間は苦しみを嘗めにこの世に来たのです」と驚きました。私は師父が私に安逸心を取り除くよう啓示されたと分かりました。その後、『轉法輪』の第一篇「本当に高い次元へ人を導く」を暗記するとき、私は「安逸心」に対する理解がさらに深くなりました。生命は元々高い次元からのもので、悪くなったので一歩一歩人間界まで堕ちてきました。神は慈悲で人間にもう一度チャンスを与え、この低次元で苦しみを嘗めさせ、修煉させ、最後に真の家に帰るように導かれています。私はこのゴミの山のような社会に落ちて来て、まだゴミの山の中で安逸を追求し、享楽にふけり、ゴミを掴んでその手を放したくないのです。これでは神が人に対する要求から、ますます遠く離れていくのではないでしょうか。師父は「戻れなければ、引き続き輪廻するか、消滅されるしかありません」[1]と説かれました。安逸の追求は本当に極めて危険です! 師父は「ところが、あなたは自分が悪くなって、ここまで堕ちてきたものですから、楽になるはずはありません」[1]と説かれました。なるほど、常人には「良い日は三日間を超えない」という言葉があります。そのため実際、神は人間に苦しみを嘗めさせるのです。

 また、実際に身の周りの現代の繁華街が広がる社会を見てみたら、新しい物事の現れがどれも人にさらに安逸と享楽を追求させて、人を壊滅させるものばかりです。例えば、ますます精緻(せいち・非常に細かい点にまで注意が行き届いて、整っていること)になっている食物、ますます便利になっている人工智能の携帯、ますます目まぐるしくなっている多彩なファッション、まさに「いたる処すべて是れ魔」[2]の状況です。

 最近、自宅のトイレの下水道がよく詰まり、何回修理してもまた詰まりました。私は下水道になにかものがあってそこに詰まり、根本の問題がまだ解決されず、詰まりを繰り返していると思いました。しばらく考えていると、突然、悟ってニッコリとしました。これはまさに修煉において、根本的な執着がいまだ解決していないことを教えてくれているのではありませんか? しばらく考えてみて分かりました。この「安逸心」は私の修煉の中にある「根本的な問題」なのです。私の大法修煉の願望、目的は永遠に安逸を求め、世間での輪廻の苦しみを抜け出し、天上に行って永遠に苦労せず、福を享受することだったのです。

 この執着心を見つけると、気持ちが瞬時に良くなり、この執着を残してはいけないと考えました。翌日、なんとトイレの詰まりが消え、水が下へ流れるようになりました。私はとても感動して、修煉はこんなにも不可思議(ふかしぎ・考えても奥底までは知り尽くせないこと)なものであると感じました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の詩詞:『洪吟』「その心志を苦しめる」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/4/359252.html)
 
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