内に向けて探せば 必ず向上できる
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文/四川省の大法弟子

 【明慧日本2018年2月27日】

 同修を助けることは、自らを助けることでもある

 年始、母(同修)は腰が曲がり、歩く時は身体が片方に傾き全身に力がなく、ちょっと歩けばすぐに休憩を取らざるを得ないような良くない状態が現れました。また、静功を煉るときは腹痛で座禅できず、動功を煉る際は腕に力がなく、特に二式目の功法の場合、何かで肘を支えなければ煉功できないようになっていました。それでも、母は毎日欠かさず真相を伝えに出かけていました。このような状態の中での真相伝えの効果はあまり良くありませんでした。母は身体的な苦痛に耐えながら、心はなお焦っていました。

 この良くない状態を一日も早く改善させるために、私は母を自分の家に迎えて、一緒に学法と煉功を行い、内に向けて探すことにしました。しばらくすると、母が旧勢力に隙を乗じられた原因が分かりました。この間、遠方に住む弟にお正月の食べ物を用意するために、母は毎日手作りのベーコンやソーセージを屋上に運んで天日干ししていました。日差しがない日は肉の変質を心配し、日差しが強すぎればまた脂分が飛んでしまって食感が落ちることを気にし、時間と精力を費やしただけでなく、強い執着心まで引き起こされて、心性がすでに修煉者の基準から程遠くなっていました。

 また、家庭のことを蔑(ないがし・あなどり軽んずること)ろにしてきた父に対して、多くの苦労をなめてきた母はずっと怨みを抱いてきて、修煉による心性の向上で怨みがある程度解消されたものの、時々父がこぼす不平不満に我慢できず、言い返すときもありました。「あなたも80歳を過ぎ、私も80歳を過ぎ、あなたより少しも若くないのよ! ちょっと家事を手伝ったからといって、すぐにブツブツと不平をこぼさないで。なぜ私一人が家事を全部やらなければならないの?」。こうして、母は「老けた」という魔を招いてしまったため、老人の状態が現れたのです。

 原因を突き止めてから、私は母と一緒に強い正念を発して、それらを否定し解体することにしました。「私は李洪志師父の弟子です。師父の按排だけに従い、すべてを師父に委ねます。全般的に旧勢力の按排を否定します。たとえ私に漏れや執着があっても、大法を修める中で自ら正していきます。邪悪には私を迫害する資格がありません」

 師父は説法の中でこのようにおっしゃっています。「法輪大法も性命双修の功法なので」[1]、「性命双修とは、心性を修煉するほかに、同時に命も修めるということ、つまり本体を変えるということです。本体を変える過程において、人間の細胞が次第に高エネルギーの物質によって取り替えられ、その際に老衰が緩和されることになります。身体が若者の方向に少しずつ逆戻りし、少しずつ転化され、最後には、その身体が高エネルギーの物質によって完全に取り替えられた時、この人の身体は完全に別の物質の身体に転化されます」[1]

 法理から分かるように、修煉者の身体はますます若く変わっていくのですが、自分が老けたと認めてはならないのです。もしかして私たちの元神はまだすごく若いかもしれません。法理において向上してから、母の身体はまもなく正常な状態に戻り、今は外出して真相を伝える際は若者よりも元気です。

 母を手伝う過程で、私の多くの執着心も露呈されました。母の身体に良くない状態が現れたと聞いた瞬間、私も母が老けたと思いました。普段、電話の中でも、私はいつも彼女に「だいぶ歳だから、やれない家事は無理にしようとせず、あまり体を疲れさせないように」と言い聞かせていました。ある意味、私も母が老けたと認めていたのです。また、私には面倒くさがる心や焦る心、自己を顕示する心もありました。母は身体の状態がよくなくても、真相を伝えるために一心に出かけようとしていました。一緒に出かける度に、私は彼女を引っ張って歩かなければならず、遠くまで歩けないだけでなく、歩くスピードも非常に遅くて、多くの気力を消耗しているうちに、私も疲れ果てて怨む心が生じました。「歩けないなら家で学法したり、発正念したりして、状態が良くなってから出かければいいのに…今のままでは多くの時間を浪費する一方で、何人救えたの? 何のためなの!」と思いました。

 しかし、このような厳しい状況の中でも、母は依然として風雨を気にせずに出かけて衆生を救っていました。彼女は「師父が伸ばして下さった時間はより多くの衆生を救い、同時に自分をしっかり修めるためのものだ」とよく知っているからです。彼女は自分の以前の間違いに気づき、時間を惜しんで補おうとしていました。師父は彼女の輝く心を見られて、彼女のよくない物質を取り除いてくださいました。

 母に比べて、私は恥ずかしい限りでした。母を家に送り返す際、私は「これから1人で真相を伝えに行けるから、どこに行ってもいいし、どこまで遠くでも行けるし、気楽だ」と考えたことさえありました。私のこの非常に利己的な心が旧勢力に隙を乗じられました。ある日、1人の障害者に真相を伝えて三退を行った後、歩きながらメモを取っていた私は足下の階段に気づかず、踏み外して両膝で着地した後、足首を捻挫してしまいました。「私は修煉者だ。絶対に大丈夫だ!」と思いながら帰宅した後、足首が大きく腫れ上がって、ベッドから降りられなくなりました。

 今回の教訓を通じて私は自分の間違いに気づき、師父の写真の前に少しずつ移動して行って、師父に謝り、翌日の真相伝えが影響を受けないように師父に加持を願い、そしてこう思いました。「母の件で私にも漏れがあった。それでも私は絶対に旧勢力の按排を認めない。旧勢力の目的は衆生をつぶすことだけだ。師父はより多くの人を早く救うように求められている。私は師父の話に従う」。翌日、私はスムーズに真相を伝えに出かけて、三つのことも怠りませんでした。

 同修と協力する中で向上する 

 週末、私はいつも娘(同修)と一緒に真相を伝えに出かけますが、この週末は娘が残業のため、私は「1人ならもっと遠くまで行けるから、もっと多くの縁のある人に資料を配ろう」と考えながら出かけました。

 家を出てまもなく、同修が道端で私を待っているのを見た瞬間、頭に良くない一念が現れました。「今日も自分の計画通りにいかないし、資料もたくさん配れないだろう」。この念が良くないと知りつつ、私はそれを徹底的に否定しませんでした。

 同修の後に付いて歩いているうちに、足が何かに引っかかって、私は勢い良くこけてしまいました。よく見てみると、セメントに埋もれている鉄筋の一部が食(は)み出て、それが私のサンダルと足の間に刺さって、私を転がせたのです。大法弟子が遭遇するすべてのことには偶然がありません。外部要因によって私がこけたように見えますが、実は、私の自我を顕示する心が根本的な原因でした。それに気づいていない私に、慈悲なる師父はこのような形で私を悟らせ、向上できるようにされたと思いました。

 師父はこのようにおっしゃっています。「もちろん、業力の転化形式は、上に述べたようなものとは限らず、他の方面において現われることもあります。社会や家庭などどこにでも現われる可能性があります。街を歩いていても、あるいはその他の社会環境においても、面倒なことに遭遇する可能性もあります。常人の中で捨てられないような心を、全部あなたに捨てさせなければなりません。どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」[1]

 実際、真相を伝える過程で、同修は純粋で慈悲な心を持って真相をはっきりと伝えていて、すごく良くやっていました。彼女の話を聞いたほとんどの衆生は真相をしっかりと理解できていました。私も大きく啓発されました。私は「これから同修により良く協力し、法を正す師に手伝う道を穏健(おんけん・おだやかで、行き過ぎや誤りのないこと)に歩んでいくように」と自分に言い聞かせました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/1/356158.html)
 
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