朝の煉功と利益の心
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文/青年大法弟子

 【明慧日本2018年9月5日】私は2年間大法を修煉した青年弟子ですが、ずっと修煉状態が不安定でした。最も悩んでいたのは自分が常に消沈し、ダラダラして、毎日の煉功を続けられないことでした。

 最近心性の関を乗り越えられず、私に悩みを話してくれた同修がいました。その同修の話を聞くとすぐに、利益に対する執着、少しでも損をすると苦しくてしかながない状態が見えてきました。私はどうして同修の利益に対する執着心が私に見えたのかと疑問に思いました。また自分に利益の心があるか探してみましたが、財物や、職位などに対して以前ほど執着していませんでした。

 この数日間、自分の修煉状態について考えてみましたが、非常に失望しました。しかしそのなかに私の注意を引いたことが一つありました。私は幼いころから成績がよい子どもで、大変よく勉強していました。高校の時は、夜中の2時まで勉強することは日常茶飯事でした。大学院生の時、試験のため、深夜まで勉強し、圧力が大きくなると泣きながら本を読んでいたことがあります。もしただの怠けの問題だったら、それは幼い頃からずっと持っていたものですが、どうしてその時はこの怠ける心や楽をしようとする心を克服することができたのに、いま修煉するなかで克服できないのでしょうか。朝の煉功をやると言いながら、過去1年間やはりなかなか起きられなかったのです。電話をかけて真相を伝えるプロジェクトに参加していながら、起きられたら電話をするし、起きられなかったら電話をしませんでした。常に途切れ途切れでした。同修と交流した結果、修煉に対して実際それほど心を込めてないと認識できましたが、心を込めてない原因は正に修煉を重視していなかったからです。

 今日車を運転している時、師父の説法が頭に浮かびました。「われわれはどれほど彼に心性を修煉するよう教えてあげても、彼は常人の中に戻ると元の木阿弥になります。彼は常人の中での確実で実感できる、ちっぽけな利益を現実的だと思い、それを求めずにはいられません。そんな人は、『先生が説いた法は、聞いている時はなるほどと思いますが、実際はとても実行できません』と言うのです」[1]。私は突然なぜ自分が常人のなかで勉強する時あれこれの困難を克服し、怠ける心を克服できたのに、修煉においてはダラダラしているか分かってきました。なぜなら勉強は確実で実感できる結果をもたらし、自分が努力すれば点数が上がり、自分が努力すればテストに合格できるからです。この結果は確実で実質的なものなので、怠ける心や楽を求する心を克服することができました。しかし修煉は常人のなかで実際の成果が見えません。怠けたら怠けて、「『先生が説いた法は、聞いている時はなるほどと思いますが、実際はとても実行できません』」[1] ということになります。これはどれほど大きな利益の心でしょうか。

 私の周りのある同修は学法することにおいて、三日坊主で精進することができません。大法の書籍を手にすると自分が苦労していると感じ、休憩をとり、携帯やパソコンをみてしまい、時間を無駄にしています。またなぜ自分が法を学んでも頭に入らないか悩んでいます。私はその同修に「どんなことでも同じです。常人も多く働けば多く得ると言っています。そこに座って学ぶのも一種の苦しみです。あなたは苦を舐めず、常に楽をしようと思うから、当然ながら頭に入りません」と伝えました。現在この言葉を思い出すと、ちょうど自分の煉功問題を指摘することとぴったり同じ内容でした。煉功したいと思いながら早く起きようとしない、静功の時間が長くなると心が乱れて足を下ろしてしまう、これこそ苦を舐めたくなく、常に楽をしようとしているのではないでしょうか。師父は何回もはっきりと、煉功するには苦を舐めなければならないと説かれました。しかし、私は常に苦から逃れて、楽をしようとしていましたが、これは修煉と相反することであり、どうして立派にやり遂げることができるでしょうか。

 最後に述べたいのは、周りの同修は本当に自分を写す一枚の鏡だということです。執着心の現れ方は異なりますが、他人が悩んでいる問題をもって自分をみると、もしかして心性の突破があるかもしれません。このことが認識できましたので、頑張ってより良く行なおうと思います。

 次元に限りがあり、足りないところについてご指摘願います。

 師父に感謝致します! 同修のみなさんに感謝致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/25/372828.html)
 
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