文/河南省の大法弟子
【明慧日本2018年10月23日】長年修煉してきた過程の中で、何かに遭遇したときは、人心ではなく常に正念で対処しなければならない。この一念の違いで結果は全く異なってくるという話を同修達からよく聞いています。とはいえ、いざそういう場面に遭えば人心というものは放棄できないものです。私の周りで2つのことが起こりましたが、考え方が異なれば、結果も異るものです。
ある時期、ものを食べるとき、左の奥歯が痛くて、噛むことができませんでした。しかも、数カ月間続きました。同修と話しましたが、同修は「あなたは歳をとったので、歯が緩んでいることは正常なことです」と言いました。その時、私は「なるほど」と頷きながら納得しました。
しかし、帰宅してから私は真剣に考えました。これは正しくありません。私は常人ではなく、大法弟子です。師父は私たちに性命双修の功法を教えていただきました。私は大法に従って自分自身を律しなければなりません。 そこで、私は指で痛んでいる歯を押さえて「上に行きなさい、このままじゃダメだよ」と歯に話しかけました。不思議なことですが、その時から現在まで、歯の痛みはありません。
また、違う話があります。
昨年の冬、私は首の後ろに痒みを感じ、触ってみると小さな粒状のものがありました。私は師父が身体を浄化してくださっているのだと思っていましたが、痒みが酷く、歯磨き粉やアロエベラゲルを塗っていました。これは薬ではないと思いつつも、痒みは次第に酷くなっていきました。
そこで、私は同修に見てもらいました。Aさんは「少し白っぽいですが気にすることはないでしょう。あなたは以前この部分に何かあったのでしょう。きっと、師父が身体を浄化してくださっているのではないでしょうか?」と言いました。Bさんは「皮膚病みたいですが、気にしないでください。多く学法をすれば良くなるでしょう」と言いました。私も心の中で「きっと良くなります」と考えました。
しかし、やはり気になっていました。ある時、私が料理をしたとき、料理にパクチーを入れようと思ったのですが、人心がまた出てきました。パクチーを食べてはいけません。これは皮膚病に良くないので、食べたらもっと痒くなります。人心が放下できないため、かゆみが繰り返しています。
またある80代の同修がいます。私はこの高齢の同修とペアになって、多くの同修に資料を提供しています。
精進しているこの高齢の同修は、昨年、息子の家に行って、帰宅したあと身体の状態がよくありませんでした。痩せて顔色も黒く、耳も麻痺しました。しかも、孫に対しての情を放下できず、また孫の面倒を見たいと思っています。同修たちといくら交流してもだめです。その頃、同修たちへの刊行物を提供することができませんでした。私はこの高齢の同修のことをずっと考えて、執着になりました。
もしかしたら「自分にも執着心があるのではないか?」と考えていました。すると突然、私は悟りました。同修に対しての情があるため、この高齢の同修によくない状態が現れました。慈悲なる師父は弟子に教えてくださいました。内に向かって探す、自分を修める、そして、人心が見つかると、取り除きます。師父は「つまり、あなたのこの人生は修煉者の人生となり、いかなることも偶然ではなくなり、偶然なことが現れることもありません。人生の道のりにあるすべては、あなたの向上と修煉と直接的な関係があります」 [1]と語られました。
修煉の道はそれぞれ違います。師父が私たちのことを見守ってくださっていますから、高齢の同修のことを考えすぎてはいけません。この一念が出ると、同修は「もう息子の家には行かないことにしました。孫の面倒を誰が見るのか? それは息子がやることです。私が心がけることではありません」と言いました。
師父のおっしゃった通りです。「執着を放下すれば舟は軽くて快く進み」 [2]を私は悟りました。師父の要求に基づいて行い修煉すれば、どんなことでも問題にはならないのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「心自明 」