文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年11月19日】寛容な態度は人間関係の中でよく賞賛されています。寛容さを持っていれば、人とうまく付き合うことが出来るからです。とは言え、人間の基点に立って物事を考えれば、いくら寛容な心を持っていても、それには限界があるに違いありません。一方、法に則っていれば、心は無限に大きく、広くなります。それについて自らの経験をお話ししたいと思います。
留置場に不当に拘禁されていた時のことです。ある日、私は同修と一緒にある部屋に呼び出されました。そこには大勢の警官達が立っていて、私たちはそれぞれの判決の宣告を聞かされました。私は不当にも懲役6年の実刑判決を下され、一方、彼女は無罪で家に帰れるという判決でした。実は、この同修は私を裏切り私は連行されていき、一方、彼女は手柄を立てて、釈放されました。
判決文が読み上げられ、サインを求められましたが、私はそれを拒否しました。一方、彼女はサインをして、書類に拇印を押しました。拇印を押した彼女は朱肉が付いた指を上げたまま、ふき取るティッシュがなかったせいか、どうすればよいか分からない様子でした。私は何も思わずにカバンからティッシュを取り出し、彼女の手に付いた朱肉をふき取りました。彼女は片方の手で判決文を持っていたからです。
この時、警官達は皆背筋を伸ばして、とても驚いた表情で私達2人を見ていました。なるほど、これだけ多くの警官がここにいたのは、私達2人に何か面白いこと、例えば言い争いやケンカが起きることを期待して、それを見物しようとしていたのだとやっと分かりました。
私は直ちに同修に「安心して家に帰ってください。しかし、これだけは覚えておいてください。私の修煉の道は師父によって按排されており、貴方によって按排されていません。あなたには私の修煉の道を按排する力はないからです。もう余計なことを考えなくていいです。だけどここは寒すぎるから、布団と衣服だけは残しておいてください」と伝えました。彼女はとても後ろめたそうに、小さな声で「はい」と答えました。実は、私の心の中では彼女より疾しい(やましい・ 良心がとがめる。後ろめたい)気持ちでした。なぜなら、自分がしっかりと法を学んでおらず、修煉に漏れがあって邪悪に乗じられました。邪悪に利用された彼女は私を裏切り、言うべきではないことまで言ってしまいました。この汚点の起因はすべてこの私にあったのです。ですから、私はもっと疾しい気持ちでいっぱいでした。
もし、私の修煉に漏れがなければ、彼女も利用されることはなかったはずです。もしかしたら、彼女は私のことすら思い出さなかったかも知れません。「同修との間柄は修煉の間柄で、友人関係ではありません。ですから、そもそも裏切るか裏切らないかの問題は存在せず、あるのはしっかりと修めていたかどうか、あるいは修めていなかったかどうかの問題しかない」と私は法に則って考えました。
法に則って物事を考えれば、この件の場合、寛容かどうかという問題はそもそも存在しません。それは常人の考えに過ぎないからです。内に向けて探しているうちに、私は自らの問題を見つけました。それなら、相手のせいにする必要があるでしょうか? 心の中に残ったのは、むしろ自らの後ろめたい気持ちばかりでした。そして、同修との間に隔たりもなければ、旧勢力に利用される心配もありませんでした。法に則って考えれば、気持ちは無限に大きく広がりました。師父は私たちにしっかり法を学んでほしい、そして、心の容量を増大させ、人間の観念から踏み出して、人間の要素に縛られず、低い次元の法理に制約されないようにしてほしいと期待されているのです!!
自らの少しの体得です。不適切な所があれば、同修のご叱正をよろしくお願いします。