法を暗唱する中で 心の容量を広げる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年3月13日】ここで『轉法輪』の暗唱に関する体験を師父にご報告し、同修のみなさんと交流したいと思います。

 一度学法グループで1人の同修が学法の厳粛性に触れた際、私は必ず『轉法輪』を暗唱すべきだと言いました。また、法を暗唱できてこそ、本当に心を静めて学法することができます。そして、真に法を学べるようになり、法に溶け込むことが出来るようになります。なぜなら、法こそ私達の修煉の方向を指導することが出来るからであると認識しました。この宇宙大法は絶対に覚えられると思いました。なぜなら以前、暗唱したことがあるからです。しかしその後、暗唱をやめてしまい続けられませんでした。いま振り返ると根気が足りなかったからです。もし今まで続けられたなら、この大法を完全に覚えられていたはずです。本当に恥ずかしいことです。

 現在、私は朝6時30分から7時30分まで法を暗唱し、夜はグループ学法から帰って来てから、夜中の発正念前の11時55分まで法を暗唱しています。効果が非常によく、早く寝てしまう習慣を突破しました。こうして2年が過ぎ、すでに十数回暗唱しました。以前に法を暗唱したことは、今の暗唱のためにしっかりとした基盤を築いてくれました。法の内包が見えるようになり、法理上、絶えず新しい認識があり、新しい悟りがあります。特に心性の方面で明らかな変化が生じ、同修とトラブルが生じた時、冷静になり、法理上いかに要求したかを思い出すことができます。以前ほどの興奮や強い勢いがなくなり、具体的なことに巻き込まれず、そこから飛び出して問題を見ることができ、人心の根源を掴みとり、ごまかさなくなりました。今では同修との間にはほとんど大きな摩擦がなく、協力がうまくいっています。

 一、トラブルの中で自分を修める

 私達の学法グループには1人の年配の同修がいます。私達は長い間一緒に協力してきて、仲がいいのです。しかし実際の問題を交流するとき、彼が認めないとことに触れると、相手が誰であれ、彼はリーダーのように人を叱ります。私が口を開けると彼はすぐ私を叱ります。事後、私は内に向けて探し、大家の同修に
「私がまた何か間違っていますか?」と聞きました。すると同修は「彼はいつもそうです」と答えました。私は「このことは絶対に、自分の何かの心に目掛けてやって来ています。さもないとトラブルが発生するはずがありません」と言いました。

 その時、師父は私が本気で内に向けて探していることを目にして、私を助けてくださいました。脳裏に闘争心、怨恨心、嫉妬心、人に言わせない心などが浮かんできました。これはすべて後天的に形成された変異した観念であり、主として中国共産邪霊により長期に渡り党文化を注がれたことによるものでした。これに気付いた後、私は直ちにそれを取り除きました。法を正す中で正せる者は残され、正せない者は取り除かれます。

 一度具体的な問題で意見が異なり、私は自分の考えを述べました。その年配の同修は私に反駁(はんばく・他の意見に反対し、論じ返すこと)する際に、「一部の人は明慧を学び、法を学んでいません」と言いました。私は彼が自分と考えが同じである同修を守っていると知り、再び口を開きませんでした。結果として気まずい思いをして別れました。

 帰りの道で、私は一人の同修に「どうしてこんな結果になったんですかね?」と聞きました。彼女は「交流ができなければ、言わなければいいのです」と答えてくれました。私は言い続けませんでしたが、非常に辛くなり、悔しく思い、不平をもらしました。あとで時間があれば、再びその年配の同修と話し合おうと思いました。この時、師父の法が脳裏に浮かんできました。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[1] と師父は説かれました。この突如やって来たトラブルは、本当に私の心性を向上させるためなのだと、私は悟りました。これはいかに素晴らしく、大きなことでしょうか。師父、ありがとうございます! 同修、ありがとうございます!

 また一度、一人の同修が無意識のうちに、その年配の同修が彼らの学法グループで、私がいかによくないかと私の悪口を言っていたと口にしました。私は「今度もやはり、自分を修めようと思いました。私が何をしているかを他人に知ってもらう必要はありません。師父がご存知であればそれでいいのです」と伝えました。

 当時、口ではなにも言いませんでしたが、人心がこみ上げてきた時、また年配の同修にどういうことかを弁解しようと思いましたが、突然、これは自分を実証しているのではないか? この心はいらないものだ、自分を「真・善・忍」に溶け込まそうと思いました。

 しばらくすると、グループ学法が終わり交流が始まりました。その年配の同修は自分が非常に強い勢いで、彼女(私を指す)と違って人に言わせない面があり、自分もずっとこの方面で修めているが、時にはまだ抑制できないでいる」と発言しました。私は「耳に入った以上、このことはワケもないことではなく、お互いに修めるべき心があります。ともに向上するよい機会です」と話しました。

 年配の同修は私が彼を理解できていることを聞き、自分も内に向けて探していると言いました。たぶん私が変わり、心を放下したから、師父がこの物質を取り除いてくださり、年配の同修も変わり、以前のように話さなくなり、声が小さくなり、何かがあると善意をもって指摘するようになったと思いました。現在、私達は非常にうまく協力しあい、仲がよく穏やかです。

 二、  大法をもって家族の同修との関係を処理する

 修煉してから、私の身には巨大な変化が発生しました。夫と息子は法輪大法のすばらしさ、師父の慈悲と偉大さを自ら目にし、数年前に大法の修煉を始めました。

 息子の嫁は息子の大学の時のクラスメートです。大学時代に息子に勧められて中国共産党を三退し、共青団と少年隊に加入するときの誓約を取り消しました。彼女は初めて家にきた時、大法の実態を知り、大法の修煉を始めました。

 家族全員が修煉することは本当に非常にめでたいことですが、人心が容易に暴露されます。夫は大法の修煉を始めてから学法ばかりし、煉功をせず、発正念もしませんでした。私が何回もに煉功しなければいけないと伝えましたが、はまったく聞き入れてくれませんでした。催促しすぎると怒り出し、自分が間違っていると認めませんでした。それからはもう、言わないことにしました。一度、私は夫に「学法しましたか?」と聞くと、は「俺の面倒はみなくていいから、自分の学法をしっかりやりなさい、俺は自分がどう行うべきかを知っているから」と答えました。私が「学法だけで煉功をしないのなら、修煉者と呼べますか」と言うと、は怒りのあまり数日間、学法もせず、煉功はなおさらです。

 私は冷静になって内に向けて探しました。どうして繰り返してこの状態なのか、どうしては受け入れてくれないのか、どうして何回も衝突が発生し、ひいては怒って自分を寝室に閉じ込もるのか、と思いました。そして、私は絶えずに学法と煉功を催促するが、これは情ではないのか? が落伍すること、が法を正す進展に追いついていけないこと、三つのことをしっかり行うことができないことを恐れるなど、一言でいうとのあれこれのことを心配し、これは他でも「情」の現れでした。

 師父は説法の中で非常にはっきりと説かれました。「情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」[1]  私は夫に対する要求が高く、言葉使いが適切でなく、慈悲心に欠け、つまり修煉者の慈悲心を持ってに接していませんでした。が受け入れられる状況下で、善意を持って話していませんでした。こうして私は自分を変え始め、再三に催促することをせず、一部のことは加減して指摘し無理強いせず、のことを多く理解するよう努め、の立場で何事も考えました。するとその後、少しずつ変化が生じ、再び彼に「学法しましたか」と聞くと、「もう学んだ。お前は師父を助けて法を正し、俺はお前を助けて法を正す」と答えてくれました。私は「あなたも師父を助けて法を正し、自分の誓約を果たして自分の使命を全うし、私達は師父と一緒に自分の家に帰りましょう」と言いました。

 本当に「修は己にありで、功は師にあり」[1] でした。

 次に息子夫婦の話をします。彼らは他所で仕事をしていて、2カ月に一度、家に帰って来ます。毎度帰って来る時、たくさんの食べ物や衣服、日常品を買って
帰って来て大変親孝行者で、非常に物知りです。息子の嫁は純粋で心根が優しく、言葉数は少ないのですが、私達2人は法理上よく交流しています。

 彼らが家で煉功することが少ないことを私は知っていましたが、私が煉功のことに触れると、息子は「お母さんは何もかも良くできて、根気もあり、苦をなめることもできる。僕はお母さんと比べるとあまりにもかけ離れている」と答えます。私は「あなたは私と比べないで、師父の要求と比べ、自から精進すべきです。今のままではいけないわ。幼い頃は言うことをよく聞いてくれてたのに、大人になると聞いてくれなくなったわ。もし煉功もしないいのなら帰ってちょうだい」と言うと、息子は「お母さんは心配しなくていい。自分をしっかり修めていれば十分だ」

 息子にも、自分をしっかり修めれば十分だと言われ、私は突然、師父が息子の口を借りて私の問題を指摘されていると悟りました。それは、息子の面倒は師父がみてくださっている、ということでした。師父は私に心を放下し、後天的に形成された観念を取り除き、向上するように望んでおられました。

 それからは息子夫婦が帰って来ると、私は修煉者の基準で自分に要求し、心を開いて彼らと交流し、それ以来、いかにすべきかを要求しなくなりました。彼らも同修であり、彼らが帰って来たのは家族全員が共に向上し、互いに促すよい機会であると実感させるようにしました。こうして少しずつですが、ますます仲良くなり環境が本当にガラッと変わりました。

 一度息子は私に「お母さんのところに転生してきてよかったよ。もしも他の人の家に転生していたら、自分は台無しになっていたかもしれない。人類の道徳が悪くなりますます滑落していく人類社会で、この世の中で僕が幾千万に得難い大法を得たことは、本当にあまりにも幸運だった」と言いました。私は「すべては師父の見事な按排のお陰ですよ」と答えました。

 私たち家族は、師父の慈悲なる救い済度のご恩を深く感じています。家族の皆がともに精進し、三つのことをしっかり行うことが、唯一無二偉大なる師父の救い済度のごに報いられることだと思っています。

 この一歩を踏み出した時、私は一つの夢を見ました。夢の中で私は海辺に立っていました。その海原は無辺に広く、どこまでも清く穏やかで、波一つありません。これは私に対する師父の励ましと、肯定であると思います。これは私に引き続き向上し、自分の心の容量をどんどん広げていき、この海原のように広大な心になるようにと、促されているのだと思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/23/378803.html)
 
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