文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年3月21日】師父は「人間は修煉の中で、乗り越えなければならない関門がたくさんあります。人間は生まれてから、人類社会を絶えず認識していく中で、様々な観念が形成され、これによって執着が生じました」[1]と説かれました。
師父は大法弟子を地獄から除名してくださり、私たちはもう三界に属しないので、三界内のいかなる人と物質にも制御されないはずですが、どうして時にはやはり三界内の人や物質の制約を受けているのでしょうか。常人と同じような考えを持つと、常人と同じように三界内の物質の牽制と制約を受けると私は思っています。修煉者として観念を変えて観念の束縛を突破し、正念を以て正しく行なえば、三界内の物質が我々を制約できる理由がどこにあるでしょうか?
以下、私に起きた、観念を変える実際の例を挙げます。
一、のどが腫れて痛いことと水を飲むこと
ある日の朝、起きてからのどが腫れて、少し痛みも伴いました。私の第一反応は、昨日食べもののせいで体に熱が溜まったと思い、水を飲むとのどが楽になったと感じました。翌朝も、同じ状況が再現し、のどの腫れと痛みはひどくなり、2カップの水を飲んで、また少し楽になったと感じました。3日目、相変わらずのどの調子が悪くて、夜になっても良くなりません。どうして水を飲んでも効かないのかと考えたとき、心性の問題かもしれないと思い付きました。突然、脳裏に「観念」の二文字が現れました。観念とは何でしょうか。常人の知識に固執して常人の方法で問題を解決したいという考え方が、観念ではないでしょうか? 水を飲むことは何の問題もありませんが、水をのどの痛みと腫れを緩和させる薬として使うのは、常人の観念になります。常人がそのようにしても何の問題もありませんが、修煉者はそのようにすると、常人のレベルに落ちます。水はただの水なので、飲むときに余計なことを考えず、その観念を取り除こうと私は自分に言い聞かせました。
また、のどの不調の原因を探ろうと、私は内に向けて探しました。数日前に同じ修煉者である妻との間にトラブルが起きて、口では何も言っていませんが、心の中でいろんな不満がこみ上げていました。自分の間違ったところを見ないで、ただ心のバランスを失い、いろいろなことを人のせいにして、ぜんぜん修煉者らしくありません。私が恨む心、愚痴、闘争心などを探しているうちに突然、のどがもう痛くなくなりました。
二、腰痛
私の腰痛はとても長く続いており、歩くときさえ痛いのです。内に向けて探したのですが、何も見つかりません。
ある日の朝、私は炒めたカボチャの種を噛み割って食べていたとき、突然、一つの観念に気づきました。数年前に腰痛がおきたとき、カルシウムが欠けると腰痛になりやすく、カボチャの種を食べてカルシウムを補充すれば良いと聞き、それから私はよくカボチャの種を食べてきました。今思うと、それは常人の観念ではありませんか、その観念を捨てないといけません。
どうして腰が痛くなったのか、経緯はこうです。7、8年前に同修と外出して、ある袋小路に入ったとき、私と同修は低い塀を見つけて、登って下へ跳び降りました。同修は無事に着地したのですが、何故か私は地べたに尻もちをつきました。私はすぐ師父に助けを求めて起き上がりました。実は、そのときに、もし私が観念を変えて、転倒や痛みを否定したら、師父に助けを求めずに済んだかもしれません。
また、なぜ塀を飛び降りないといけなかったのでしょうか。2人は袋小路を折り返すのを面倒くさがり、楽をしたくて塀を越えるアイデアを思い付いたのです。自業自得ではありませんか。家に帰ってからも反省せず、翌日から腰が少しずつ痛くなり、ひどくなりました。今日、観念を変えて執着が見つかると、いつの間にか腰の痛みが消えました。
三、膝の痛みが消えた
私の左側のひざが痛くて、睡眠中に痛みで目が覚めるときもあります。ずっと原因が見つかっていませんが、私はいつもゆっくり歩いています。
ある日、煉功のとき、左足が突然ふんわりして力が抜け、私は地べたに倒れました。そのとき、「弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません」[2] を思い出しました。
「行動」の二文字はずっと脳裏から離れません。「行動」とは何でしょうか、つまり自分の行ない、行為だと思います。私がゆっくりと歩くのは、行動において足の痛みを認めたことになるのではありませんか。修煉者の身体は師父によって調整されたもので、私はまだ何を恐れているのか! と思い、私が大きい歩幅でさっさと歩いても、何の不調も感じません。修煉者として、師父を信じ大法を信じれば、乗り越えられない関はありません。
四、疑心と恐れる心
街で偶然に警官に会うと私は恐れ、パトロール・カーを見ても怖くなります。知らない人にじっと見られたら、この人は私服警官ではないかと考え、誰かが私の後を歩くと、私を追跡しているのではないかと心配します。実はそれはすべて「感覚」が産んだ疑心で、そこから恐れる心も生まれました。家の中にいても、一時この部屋からあの部屋に入ると突然怖くなって、数日同じように理由もなく怖くなり、家を売り払いたいと思いました。
『轉法輪』を読んで、「怖いと思うこと自体が、本当に面倒なことを招いてしまうかもしれません。なぜかと言いますと、怖くなれば恐怖心が生まれますが、それはほかでもない執着心ではないでしょうか? 執着心が現われれば、それを取り除かなければならないのではないでしょうか? 怖くなればなるほど、本当に病気にかかったような気がしますが、その心こそ取り除かなければならないものです。そこから教訓を学ぶことによって、あなたは恐怖心を根絶し、高まってくるのです」[3] とあります。最初に怖くなったとき、すぐに正念でその怖さを打ち破るべきですが、しかし反対に私はその怖さを少し噛み締めました。味わった怖いという感覚は観念ではありませんか? それからまた疑心と恐れる心を産み出しました。『轉法輪』のその部分を読んだおかげで、執着を除去すると同時に教訓も学びました。
「大法身を離れずして 心に真善忍存す 世間の大羅漢 神鬼十分懼れる」[4]。修煉者は世間の大羅漢で、神鬼も我々を恐れるのに、どうして逆に我々は三界内の生命を恐れるのでしょうか。師父は大法弟子に十分の能力を与えて下さったので、正念を以て正しく行ない、人心を持たなければ、誰が私たちを迫害することができるでしょうか?
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『洪吟』「威徳」