大法の中で幸せを見つける
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文/中国の若い大法弟子

 【明慧日本2019年3月23日】「なぜ君はいつもニコニコしていられるの?」と私は周りの人からよく聞かれます。その時、私は大法弟子で、師父は両親よりも私を大事にしてくださり、どのようなことに遭っても、師父はいつもそばにいらっしゃり、常に師父のご加護が感じられるから、と答えています。

 私は表面上幸せな家庭に生まれましたが、実際のところ、両親の仲は非常に悪く、私が10歳になるまで、母は身体が弱く、毎日、溜め息と薬のきつい匂いがする部屋で生活していたため、私の子ども時代の思い出は苦痛でしかありませんでした。あの頃の自分は「人は何でこんなに苦しいのかしら?」とよく天に向かって問いかけていました。もちろん、誰も答えてくれませんでした。

 私が10歳の時、母は法輪功の修煉を始めました。それ以来、部屋に充満していた薬の匂いと溜め息がなくなり、その代り、平和で穏やかな空気が漂い始め、母の身体も心理状態も健康になりました。よく文句や不満を口にしていた母でしたが、常に他人の事を考えるようになり、いつも笑顔でいられるようになったのです。私にとって、このような平凡な毎日こそ幸せなのです。家庭の条件はごく普通ですが、内心は充実していて、とても楽しいです。

 これをきっかけに、私も母と共に法輪功を修煉し始めました。そして、毎日喧嘩をしていた子どもから、先生や保護者、クラスメート達からも認められる良い子に変わり、成績もずっと右肩上がりで、何事においても真・善・忍に基づいて自分を律するようになったのです。

 俗世で自分を見失う

 1999年7.20、中国共産党による法輪功への激しい弾圧が始まり、父からの妨害もあり、修煉を中断しました。それからは、流れに身を任せ、心の中では真・善・忍を覚えているものの、他のことは何もかも忘れてしまったのです。高校に上がってからは物事へのこだわりが多くなり、成績も急激に下がり、先生に反抗したり、親に嘘をついたりもしました。基本的な道理は分かっていましたが、流れに身を任せたまま生きていて、悪い子どもたちと一緒に行動するようになり、担任の先生と口喧嘩もして、このような自分を「格好いい」とさえ思っていました。

 その結果、もちろん、良い大学には受からず、三流の専門学校に通いました。こうして、卒業まで適当に学校生活を送り、卒業後もお金を稼いでは、あちこちを遊びまわり、飲み食いをして、以前はハンバーガーを食べられただけでも幸せと感じた時さえありました。その後、旅行にはまり、旅先でも食べることに夢中で、目に入る物なら何でも買って食べ、味が悪ければ、残った物はすぐに捨てました。新鮮さだけを追求してきましたが、満足感は得られませんでした。

 中国の至る所に行きましたが、「幸せ」は見つかりませんでした。では、「幸せ」は結婚して家庭を作ることなのだろうか? そう思った私は彼氏を探し始めました。しかし、3回の出会いがあったものの3回とも別れてしまったのです。3人ともとてもよくしてくれましたが、あれこれの事情で結婚までたどり着くことができませんでした。もしかすると、学歴を高め、仕事の面でもレベルアップした方がいいのかもしれないと思い、私は勉強を始めました。勉強した結果段々と昇進していき、給料も上がり、もちろん、仕事も忙しくなりました。しかし、夜中の静まりかえった時、孤独と寂しさが襲いかかってきてとても苦しかったのです。一体何が本当の幸せなのかと自分に問いかけました。

 2012年、家庭内の激変に遭遇しました。父が突然刑務所に入れられ、そのことにより私自身も結婚間近の婚約者に捨てられました。このようなことを身をもって経験しなければ、人間がこれほど残酷になるとは知りませんでした。食べることも忘れ、夜寝る間も惜しんで仕事をしていたのに、家の事情にもかかわらず会社を解雇され、その上、会社はあれこれの理由をつけて違約金も支払ってくれませんでした。

 父を助けるため、私は全ての貯金を裁判に費やしてしまいました。まだ26歳の私はまさに「無一物」になったのです。あの頃の私にとって、幸せを探すどころではありませんでした。苦痛以外に何も感じられず、これからの人生にどのように直面すればいいのか全く分かりませんでした。

 大法を通じて人生の意義を見つける

 彷徨(さまよ)っている私と違って、修煉している母は突然やってきた一連の出来事に冷静さを保ちながら、面と向き合っていました。それだけでなく、毎日笑顔で、まさに真冬の淡い太陽の光のように、私の心に穏やかさと安らぎをもたらせてくれました。修煉、そう、修煉こそ私に生きていく勇気を与えて下さり、人生の道を示して下さったのです。

 こうして、2012年の年末、私は再び修煉の道に戻って来ました。同僚や友人と飲みに行くことも、遊びまわることも、ショッピングに夢中になることもやめ、仕事が終わって帰宅すると大法の本を開いて法を暗記し始めました。次第に「幸せ」の意義を理解し、師父の「名を求めざれば悠悠自得、利を重んぜざるは仁義之士、情に動かざれば心清らかに欲寡し、身を善く修すれば徳を積むこと一世」[1]という詩の法理も悟りました。

 父への怨みを放下し、不倫が原因で家庭が崩壊したことを責めることもなくなりました。もしかすると、このことがなければ、自分が修煉の道に戻ってくることもなかったのかもしれません。恨む心がなくなったことで、相手の長所が目に入り、父のいいところを思い出し、私を育ててくれた両親に対し、感謝の気持ちを抱くことができ、心身共にすっかり楽になりました。

 名利を求める心を放下した時、常に他人のことを先に考えることができ、仕事においても、進む道がどんどん広がっていきました。私は販売員です。営業では、常に「利益」のために争っており、他の誰かが自分と同じ顧客を持ち、注文が重なると、私がもらうはずのお金を相手と分けなければなりません。しかし、利益を放下した途端、本当に無私無我になれました。そして、顧客の数が増え、同僚や上司に認められ、また、同僚が外回りに行く時も私を連れて行くようになり、その上、会社を辞める時でも、私が顧客を連れて行くのではないかという心配さえ、誰もしませんでした。なぜなら、私がそのような人ではないと、皆に分かっていたからです。

 名利と情を放下してから、私の心は幸福と感謝の気持ちで満ち溢れ、同僚や友人の長所が見えるようになりました。誰かに他人の文句や愚痴を聞かされても、私にはその人の長所しか見えません。相手の長所だけを見ていれば、相手もその長所をもって接してくれるでしょう。

 大法を修煉してから、常に幸せな気持ちでいっぱいです。私はもう独りではありません。師父がいらっしゃり、大法があるのです。夜中、人が寝静まった時、自分が大法弟子であると思うと、夢の中でも笑えるほど、以前の孤独感や苦痛はすべて消え去りました。本当の幸せとはなんでしょうか? それは心身の健康であり、この世に生まれてきた意義を知ることであり、人生の目標を持ち、そのために努力することであり、そして、泥沼から逃れ、もう迷わないことなのです。

 この幸せを皆さんと分かち合いたくて、今回の交流文章を書きました。そして、皆さんが『轉法輪』を通じて、それぞれの幸せを見つけることができ、常に穏やかで平和でありますよう祈っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「人を做す」 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/21/383016.html)
 
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