文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月2日】1999年7.20、中国共産党による大法への迫害が始まった後、夫は陳情しに北京に行きました。その後、広州で開かれた大法弟子たちの法会に参加し、多くの同修と一緒に風雨が止まなかった日々を乗り越えてきました。広州法会の後、彼は周りの同修と一緒に真相資料を作りました。また、新唐人テレビを見るための装置を研究して制作し、多くの同修に深い印象を残しました。
残念ながら、彼はその後の厳しい迫害に耐えきれず落ちてしまい、学法や煉功をやめてしまい、三つのことも行なわなくなり、気性が激しくなっていき、自己コントロールできない時はよく暴れていました。そのような環境の中で、私の修煉状態も日に日に悪くなっていきました。
慈悲なる師父は私に、彼の修めてできている比類のない神聖な一面を見させ、必ず彼を見守るように悟らせて下さいました。しかし、私自身の修煉がしっかりできていない上に、彼の予想もつかない暴れ出す行為にも対応しなければならず、本当に心苦しい思いでした。
社会全体における邪悪による圧力はさておき、私自身の執着によってもたらされた魔難もさておき、ここでまず、私が家庭内で経験した苦難について触れてみたいと思います。
最初の頃、彼に殴られれば私も殴り返し、事後、心性を保つことが出来なかったと悔やんでいました。絶えず学法するうちに、10回の中で9回は我慢できなくても、1回ぐらいは自分を制御できるようになり、徐々に殴り返さないことが出来るようになりました。しかし、彼にひとしきりに激しく殴られる度に、私にはやはり多くの怨みや彼を見下す心が生じてきて、無理やり我慢していました。
殴られる回数が重なるうちに、今度は恐れる心が生じました。結局、私の人心が増えれば増えるほど、彼はもっと激しく殴り、彼が凶暴になればなるほど、私の人心はもっと強くなりました。時には、殴られている最中に私は微動だにせず、「いっそう、打ち殺してちょうだい」と思いました。しかし、すぐに念を改めてこう考えました。「彼に打ち殺されたら、法を破壊することになるのではないか? 彼も地獄に落ちてしまいます! そんなことは駄目です。打ち殺されてはいけません」。このような繰り返しの中で、私は10年間悩み続けました。
「もう殴り返さないことが出来たのに、なぜこの魔難はまだ続くのか?」と悩む中で、魔難が10年も長引き、最終的には解決できない極限状態に達しました。私は自分が黒巣の中で、迫害されている同修たちとさほど違わず、ただ迫害を受ける場所と程度に差があるだけだと思いました。
旧勢力が按排した一連の魔難を経験した後、ついに私は根本から自分の不足を探そうと決心しました。家庭の魔難を受ける中で、多くの人心が生じていたことにやっと気づきました。「恐れる心」や「怨む心」などの人心を絶えず排除していくうちに、彼は私を殴らなくなり、氷ほど冷たかった家庭も段々と暖かくなり、2人の間に会話が生まれました。
その後、私は彼に優しくしてあげるべきだと気づき、彼がどんな態度を見せようと、私は心から彼の日常生活に気を配り、ご飯を用意してから彼の目の前に持って行くようにしましたが、相変わらず、顔は無表情でした。彼が食べないのを見て、私は「どのみちあなたのために作ったのに」と考えました。善を修めていくうち、彼が食べない時、私は彼が空腹で体を壊すのではないかと心配になり、「早く食べて、空腹は身体に良くないよ。多く考えないで」と彼を説得するようにしました。その時、彼が何も言わなくても、内心ではとても申し訳なく思っていると私は感じました。
そのうち、私はあることを悟りました。以前、私は「殴られても殴り返さず」[1] をやり遂げたものの、彼への接し方が法の基準に符合していませんでした。彼に対する私の冷たい態度こそが、自分の魔難を長引かせた根本的な原因だったのです。
他人の正常ではない状態を見て反感を覚え、他人が間違いを起こせば、嫌な気分になるのは人間の理だと悟り、大法弟子である自分がいかなる状況にいても、他人に慈悲をもって優しく接するべきだと気づいてから、私は突然自分が人間の理から抜け出たと感じました。そして、どんな状況に遭遇しても、法の最高基準である、すなわち、「真・善・忍」に則って解決を図るべきだと認識しました。
私は本当に心から夫に優しく接し始めました。時には彼は感謝どころか、愚痴までこぼしてくる時、私は法に則ってさらに自分を高め、彼にさらに優しくしました。彼の良くない言動を目にした時、私は自分の修煉がまだまだ基準に達していないと考え、さらに心から「優しさ」と「寛容」を持って彼に接するように努力しました。うまくトラブルに対処できず、自分を制御できない時、私は法に符合しない自分の隠れている「執着」や「観念」を探し出して取り除くようにしました。
突然、人間の心理状態に従って執着していた自分が、本当に法理に沿って修煉していると感じました。また、正に「真・善・忍」に従って自分を修め、三つのことを実行していく過程は他でもなく、最終的に法に同化する過程だと悟りました。師父はこのようにおっしゃっています。「一人の修煉者として、あなたがこの特性に同化すれば、得道とくどうした者となるのです。理はこんなにも簡単です」 [2] 私は徐々に師父の教えに近づいていると思いました。
先日の学法で「それは覚者で、修煉を通じて悟りを開いた人のことです」 [2] を見た時、私は心に震撼を覚え、「悟りを開いた人なら、いかなる人や物事に対しても『真・善・忍』の基準をもって接するべきで、法曹機関の関係者達にも同じことだ」と考えました。そして、修煉過程で私たちが経験するいかなる魔難や、業を滅する時であろうと、執着を取り除く時であろうと、その魔難自体は何ものでもなく、それを経験することによって、私たちの生命の本質が覚醒されることが最終目的だと悟りました。
ここまで書いてきて、今朝の夢を思い出しました。夢の中で、私は多くの飛天(一般には虚空を飛ぶ天人や天女のこと)と大小の法輪を見ました。ずっと不思議に思っていたのは、長年修煉してきて、なぜこれらの天上の美しいものを、これまで一度も見なかったのでしょうか? これを今、わかりました。今までの私は人間の理から離れることなく修煉していて、どうしてこれらの美しいものが見えるでしょうか? 私がさらに高い基準に達し、法に同化してはじめて、天上の神聖かつ素晴らしい生命が見えるのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』