真の信仰は純粋で ご利益を求めない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年4月18日】

 信仰について

 毎年、法会の交流文章を読むと、その多くは修煉前後の自分の変化や奇跡的に蘇った経験、道徳の昇華、または劣等生からエリートに生まれ変わったお話などから始まっています。総じて言えば、大法は確かに人々にさまざまな恩恵をもたらしています。多くの人も当初、修煉がもたらした素晴らしさを経験してから大法の修煉を始めていました。 

 私が法を実証しに北京に行ったときも、健康を回復し道徳水準の昇華を得たあと、受けた恩に報いたくて天安門広場に出たのであり、恩返しする常人の情に留まっていました。数年間の修煉を経て次元や認識も高まり、それが修煉の目的ではないことが分かりました。

 今の中国では、目先の功利を急ぐ行為や、投機に目が眩む現象が社会の至るところでみられ、人々は利益にしか興味をみせず、利益を得ればなお功利のために犠牲を厭わないため、信仰にも功利の色彩を帯び、精神面の追求がますます少なくなりました。

 人々は災難から逃れるために佛を拝み、出家人も何かを得るために読経や座禅をし、善行を行なっています。社会全体が利益の追求に奔走し、真に修めることとは何かを知る人はほとんどいません。

 信仰する気持ちに荘厳さや神聖さ、畏敬の念が欠けて、ただただ幸せやご加護、病気回復や金持ちになることだけを求めるとなれば、その信仰は必ず敬虔でなくなるでしょう。信仰すれば利益が得られ、難を避けられ、求めるものが必ず実現するのであれば、このような信仰は世間の取引にほかなりません。実際、現実の中で、金を使い焼香しても効き目がなければ佛像を壊す人もいれば、佛に叩頭して願いが実現しなければ罵声を上げる人もいて、病気を追い払ってくれなければ、脹れ返ってしまう人もいます。

 信仰は人間社会の取引でしょうか? メリットがあり、利益が得られて初めて信じるのですか? 信仰とはいったい何でしょうか? 修煉の目的は何でしょうか? 私は明確な目標を持ち、正しく修煉していくためにできる限り考えの整理に努めました。

 真の信仰は純粋でご利益を求めない

 光陰矢の如し、修煉して20年来、迫害によって命を奪われた同修もいれば、仕事や家庭を失った同修も少なくなく、病業(中国共産党による直接間接的迫害によるものもある)で世を去った同修もいます。そんな中で、私はある問題を常々考えていました。修煉によって世間で何のご利益も得ることができなければ、それでも私は修煉し続けるでしょうか?

 世俗でのメリットや利益がなく犠牲と責任を伴うとき、私はまだ修煉し、続けていくでしょうか?

 長年考えた末、今生の自分は修煉のために来ており、何もなくてもしっかり自分を修め、衆生を救っていくのが宿願で、利益とは何の関係もないことが分かりました。 

 『旧約聖書』の「ヨブ記」には、ヨブという老人の物語が記されています。老人は富と多くの子供に恵まれて神にも敬虔であり、一家は幸せな生活を送っていました。ある日、神はサタンに権限を与え、老人の全財産、子供たちを相次いで奪わせ、最後に彼にひどい皮膚病を患わせました。苦痛の中でも、ヨブは終始神を畏敬し信奉しました。最後に神は自らヨブの目の前に現れ、奪い取った彼の全財産と子供たち、そして健康を彼に返しました。

 この物語から私が読み取ったのは、真の信仰は純粋で、利益に少しも絡まないものです。師父はこのようにおっしゃっています。 「人を済度するには条件を付けず、代価も報酬も取らず、名乗り出ることもありませんから、常人の中の模範人物よりずっと優れています。 それはまったく慈悲心によるものです」[1]

 では、私たちの修煉も無条件であるべきではありませんか? 修煉の本質は宇宙の特性に同化し、宇宙における良い人、覚者になることであり、世間でのメリットやご利益とはまったく無関係で、世俗を超越し、何の人心も持たないようになることです。

 求める心に気づく

 生命は次元が落ちる過程で欲望と私心が生まれ、俗世間で生きる間に時々刻々利益と関わり、身体が物質に束縛され、本性も欲望に埋められてしまいます。常人社会で修煉する私たちは多くの場合、求める心を当たり前に思ってしまい、実際、それは変異した、汚くて恥じるべき心だとまったく気づくことができません。

 学法すべきだと皆知っていますが、学法したからと言って、法に同化できなければ法を得たとは言えません。では、どう学べば法を得ることができるのでしょうか? 私の認識では、求める心を放下し、メリットを得ようとする考えをなくし、心を静め、目に入った文字の一つ一つをしっかり心に留めることが肝心です。

 「功能は修煉過程の副産物」[1] を学ぶときに気づいたことですが、心を静めて読めばこのような道理が分かると思います。つまり、身体の健康や心の安静、事業の繁盛、家庭の円満など、これらのメリットと思われることのすべては実は修煉の副産物に過ぎず、次元を代表せず、果位でもありません。修煉においては心性の向上が肝要で、心性を向上させることに尽力すべきです。根本である心が良くなれば、すべては自然に良くなります。

 師父の法をどの程度まで理解し、どこまで実行することができ、どの境地まで修めることができるかは私たち自身にかかっています。生活の情況が良くなれば嬉しくなり、悪化すれば天を怨んで人を責めるのは人心で人間の情であり、修煉者の正念ではありません。もし私たちが行なう三つのことが法の基準に達していなければ、法の威力が私たちの身に現れて来ないのも必然で、その原因は私たち自身にあります。どんな関や難に遭遇しても内に向けて探し心を修め、時々刻々自分の求める心を察知すべきです。なぜなら、それは変異した邪悪で危険なものだからです。

 求める心は気づきにくいのですが、至る所に存在します。ですので、私たちはそれを察知し、認識し、早く取り除くべきです。

 求める心を取り除く

 生命は三界に入ってから思想が段々汚染され、肉体も求める心に覆われ、包まれてしまいます。多くの場合、私たちは求める心を自分だと思ってしまい、剥離したくなく一掃しないのは、実のところ、人間の名利や心地良さを放下したくないからです。求める心は私たちの本性とは少しも関係がないのに私たちの思想をコントロールし、私たちの行動を操り、あらゆる手を尽くして私たちを永遠に人間社会に留まらせようとしています。

 まず、それをはっきり見分けるべきです。メリットを求める心は人間の変異した観念で私心です。宇宙の特性に符合している私たちの本性は無私無我で、汚染された偽の自我とはまったく異なります。求める心は傷つけられたら苦しくなり、満足させられたら喜びます。これはまさに人心で観念です。偽の自我はまた主意識を騙すことができ、「メリットを得ていない、騙された、損をした、師父が私を見放された」といった考えを私たちの脳に反映させます。このとき、私たちは「真我ならメリットを求めるはずがなく、真我なら師父を疑うはずがない」と考えて頭をはっきりさせ、「それは真の私ではなく、私の中に存在する敵で、私の親友ではない」と思い、それを本当の自分とはっきり見分けることが肝心です。

 次に、その危害を認識すべきです。師父はこのようにおっしゃっています。「いろいろな目的を追求しながら功を学び、大法を学ぼうとしても、何も身につけることはできません」[1]。心に求めがあれば、心が正しくないということになります。心が正しくなければ、矢を射るときに的が外れてしまいます。メリットを求める心があれば条件に拘り、不公平に思い、怨みたくなり、法から遠ざかって、終いには修煉を諦め、すべてを台無しにしてしまいます。

 私たちはそれに気づき、きれいに排除しなければなりません。私たちがそれをコントロールしなければ、それが私たちを操り、反対しなければ放任することになり、排除しなければエネルギーを与えてしまいます。毎回、私たちはそれを見て見ぬふりをし、思惟や行動をそれに任せてしまえば、いずれは飼い犬に噛まれる羽目になります。

 しかも、それを取り除くには粘り強い根気が必要です。求める心は旧勢力が前々から企んで私たちに押し付けたものかもしれず、久しい年月の中で私たちの中で徐々に形成されたものかもしれません。ですので、それがすでに私たちの中で深く根付き、高山や硬い岩のようになっているかもしれません。それの形成過程が長かったので、排除するのも僅かな日時では不可能でしょう。もっとも肝心なのは、毎回、それに気づくとすぐに捕らえて排斥し、否定することです。

 また、求める心が出て来る度に迷わず、言い訳をせず、徹底的に排除すべきです。師父はこのようにおっしゃっています。「動揺しない人なら、業を消すことができます」[1]。多く学法すれば正邪を弁別し、邪見を消し、智慧を増すことができます。続けて学法することは極めて重要です。

 結び

 古人は天下を治めるにはまず自分の心を正し、意を誠にし、身を修め整え、次に家庭をととのえ、国を治め、それから天下を平和にすべきと唱えていました。つまり、心を正すことが一切の根本です。伝統文化は良知、仁義、道徳と正気を重んじ、欲張りや名利への追求、背信などを卑しめていました。今日の変異した社会の中で、信仰も世俗化され、功利化され、もともと信仰にあった神聖な価値や精神の覚醒、意識への教化が薄れてしまいました。私たちは肉体を有しながら物欲が横行する世界で生きているので、心を修めるには物質や功利、貪欲から抜け出さなければなりません。

 信仰は何かを得るためではなく、魂の住処を探し、精神の昇華を得て、人生の永遠を追求することです。修煉における師徒の関係はもともと純粋な尊敬、信頼であって、互恵関係ではありません。信仰についての私の認識はまだまだ浅はかです。皆さんのご理解もお聞きしたいです。

 実は、修煉者が大法を修煉することによって心性の向上と思想境地の昇華を得たとき、物質と精神が同一のものであるので、健康状態や経済条件も改善されるはずで、もっと良い状態に同化しているのです。これは真に修める大法弟子の身体での大法威力の体現です。もし師父がいらっしゃらなければ、法がなければ、真に修めなければ、何もありません。それは決して求めて、期待して、怨んで得られるものではありません。師父はこのようにおっしゃっています。「もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです!」[2]

 修煉とは苦を嘗めながら心を修めることで、追求しているのは佛法の智慧、精神の覚醒と魂の昇華であり、常人のいかなる利益とも無関係です。しかし、利益を求める心の背後には、苦労を嘗めたくない人心が隠れているのです。師父はこのようにおっしゃっています。「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす」[3]、「常人の苦楽を記さざれば 乃ち修煉者 世間の得失に執せざれば 羅漢なり」[4]、「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[5]。もし私たちが本当に苦を畏れず、苦を楽とすることができれば、修煉自体が清浄かつ平然なことなので、また世間の何のご利益がいるでしょうか?

 個人的な拙い見識に過ぎず、妥当でない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟』「三界を跳び出る」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/12/25/357675.html)
 
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