文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月23日】私は大法を修煉してから14年になります。学法する時は内容が心に入るように気をつけていましたが、煉功の時はそうではなく、ただ任務として完成させ、よくぼんやりしていました。師父の号令と煉功音楽は聞こえているような、聞こえてないような状態で、動作は常に師父の号令と一致しませんでした。たまには意識できて改めましたが、多くの場合、雑念に影響されて煉功動作はただ真似をしているだけでした。これで煉功はできていると思っていました。この状態は習慣となってしまいましたが、自分では毎日五式の動作をやっており、よく出来ている同修には及ばないが、私より出来てない同修よりはマシだと思っていました。三つの事もすべてやっていましたので、そこまで精進してはいないが、まだまだ行けると思い、自惚れていて、現状に満足していました。
その後、少しずつ身体に正しくない状態が現れ、身体が重くなり、歩く時足を持ち上げることができず、よく転んでしまってゆっくりとしか歩けず、心では速く歩こうと思っても思うようには歩けませんでした。左側の脚と左側の腕は数年間痛みがありましたが、いくら内に向けて探してもわからず、歩く時の姿勢まで変わってしまいましたが、どういうことが原因なのかを悟れませんでした。しかし、後になって悟ったことは、修煉を始めた目的は大法を利用して病気を治療したいという根本的な執着心が隠れていたことに気づきました。
新しい煉功音楽が発表された時、師父は弟子のためにエネルギーを加えてくださり、弟子を上へと押し上げ、本体の転化を加速させてくださるので、師父について歩まなければならないと考え、悟るべきだと思いました。そして60分間の抱輪をやり終えられるかどうかを考えずに、雑念をなくして真面目に師父の号令と音楽を聞きながら煉功をはじめると、すんなりとやり終えました。毎日こうして専一に煉功を続けると、大脳は冷静な状態で師父の号令と音楽を聞きながら煉り、頭の中に雑念が現れたらすぐに取り除き、学法する時と同様に常に雑念の現れに警戒し、一旦何かの考えが浮かんできたら、すぐに取り除きました。師父は「煉功は圓満成就の手段です」 [1]と説かれました。疎かにしたり、いい加減にあしらってはなりません。
認識できるようになると、心性も上がってきました。数日後、長年の正しくない身体の状態が消えました。私の悟性はどれほど劣っていたのでしょうか! どのくらいの時間を無駄にしたのでしょうか! 以前のように煉功したら、それは無駄に煉功したことになりはしませんか? 誰のために行ったのでしょうか? これは師父と大法に対して不敬な現れではなかったのでしょうか! どれほど大きな罪と過ちを犯したのでしょうか! これほど長年間違っていながら気づきませんでした。今になってやっと師父の導きを悟り、加持の下で自分の間違いを認識できました。
慈悲で偉大な師父は一人の弟子も取り残そうとされません。私と類似した状況にある同修は早く目覚め、法を正す最後の重要な時間の中で多方面から自分の不足を見出し、一切の正しくない状態を改め、師父と一緒に家に帰れるよう望みます。
偉大で慈悲なる師父のご恩に感謝申し上げます。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』