文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月26日】一部の同修は病業が現れた時、これは旧勢力の按排と妨害だと思い常人の考えで解決しようと考えています。例えば、内に向けて探し、或いは発正念で関を越えようとしましたが、修煉者の心で対応せず、これを真の向上のチャンスとして内に向けて探しませんでした。このときあなたは実際に旧勢力の按排をすでに認めたのです。このとき内に向けて探すのは条件付きであり、問題を解決するためであり、求める心を持ってやったものです。このようなやり方は実質上常人の観念と考えの中で問題をみているのです、修煉者が真に内に向けて探すことではありません。これは自然に旧勢力の按排を認め、旧勢力に按排された魔難の中で修煉しているのです。
真に内に向けて探すときは執着がなく、求めないのです。内に向けて探す本当の目的は人心を修め、人心を取り除き、心性を向上し、大法に同化することです。求める心を持って内に向けて探すことは、無条件で探すのではなく、求める心に動かされたものです。この心では関をどのように越えられるでしょうか?
師父の説法から私たちは、修煉の中でどんな事に遇ってもみな良いことだとわかっています。しかし、私たちは病業が現れたとき、どれぐらいの人がこれを良いこととみたのでしょうか? 病業が現れると、内心で常人の観念が働き、すぐ悪い事として対応するのです。悪い事に遭ったと思うと、何かの方法で速く解決しようという求める心が生じます。この求める心から内に向けて探し、正念を発しても、問題を解決できるでしょうか? 時間が長くなると、大法に対する信心が揺れ始め、恐怖心が再び現れ、病業がさらに酷くなり、長く続くと完全に自信がなくなり、病院に行くか、或いは我慢して結局は肉身を失ってしまうのです。
では、どのように病業に対応すればいいでしょうか? 病業が現れるとき、まず良いことが来た、向上のチャンスが来たと意識し、無条件で内に向けて探します。全ての人心を見つけた後、それを取り除き、心性を高め、大法に同化した後、正しい念、正しい行ないをします。修煉者には病がなく、この病業が人心からできた仮相だと認識するだけでなく、行動もこれを仮相として対応し、この仮相を気にせず、自分は完全に健康な大法弟子だと思い、やるべきことをやります。自分を病人とみて家で静養しないよう、修煉をしっかりすれば、この関門を越えることができます。
このように関門を乗り越えることは旧勢力と何の関係もありません。一部の難関は確かに旧勢力の働きですが、私たちは旧勢力の存在を認めず、旧勢力に按排された難関を過ごすことなく、師父に按排された道だけを歩めば、どんな難関に遇っても、師父のご加護があり、大法の指導があるので、みな乗り越えることができ、旧勢力の存在とその按排を気にする必要はないのです。