「師と法を敬う」 そう思う心が最も大事 
■ 印刷版
 

文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2019年4月26日】最近、周りの同修の中で起きたいくつかの現象を見て、とても気になりました。それを書き出して、注意を促したいと思いました。

 それは師父と大法を尊敬することについてです。一部の同修は普段から師父と大法の事を話すと、いつも感謝感激して、時には涙がポロポロと流れ落ちます。そして、常人から大法に対する失礼な言葉を言われると、彼らはすぐに「大法を傷つけてはいけない」と反撃します。このような行為には少し過激なところがありますが、間違っているとは言えません。しかし、大法弟子にとって、師と法を敬うというのは、人に見せるだけではなく、根本から、つまり心から敬意を表さなければならないのではないでしょうか!

 例えば、法を学ぶ時、ある学習者は字を間違って読んでしまいました。同修がそれを指摘すると、彼は訂正するどころか、かえって同修のことを邪魔だと言い、つまり、自分が間違っていないような言い方をしました。またある学習者は、常人のことをやる時、元気いっぱいなのですが、法を学ぶとなると、すぐに居眠りをし、あるいは、いびきをかくほど眠りについてしまいました。そして、ウトウトとして本を落とし、目が覚めたら本を拾い上げ、笑ってごまかす人もいます。

 このような光景を目の当たりにして、私は本当に心を痛めました。大法の本『轉法輪』は私たちを三界から離脱させるために、指導してくださる「天書」です。このような扱い方でいいものでしょうか? しかし、何度指摘しても役に立ちません。また、発正念についても一部の同修は重視せず、発正念をすると掌が倒れてしまいます。発正念は邪悪を一掃し、衆生を救い、法を実証して精進するこができるように、師父が私たちに与えてくださった「神通力」です。このような態度で臨んでいいものでしょうか? それについて交流をすると、「大法を持って私を威圧しないで」と文句を言う人までいます。

 また、煉功する時、一部の同修の動作は師父が教えてくださった基準から、かなりかけ離れています。師父の号令を聞かずに勝手に動き出し、他の人はまだ衝灌をしているのに、すでに印を結んでしまう人もいれば、頭の両側で法輪を抱える時、ただ前腕を上げ、手の位置を全く気にしない人もいました。今、2人の同修は耳が遠くなる症状が顕れました。もちろん、中には旧勢力の妨害もありますが、自らの心性の問題もあるのではないかと思います。

 このような問題を早く是正しなければ、私たちの修煉の妨げになります。昨夜、抱輪をした時、「あなたが感じたことを全部書きだして、皆の認識を高めさせよう」という声が聞こえました。その時、私は心の中でそれを断ろうとしました。実は、私は文章を書くのが不得意で、自信がないと思いました。しかし、またその声は「文章を書くことは、あなたが一番適している」とも言いました。「分かりました。では、書きましょう」と仕方なく約束しました。すると、その声は再び現れて来ませんでした。煉功を終え、ベッドに横になってからもなかなか眠りにつけないため、もしかしたら、これも導きではないかと悟り、起き上がって本文を書き始めました。

 この文章は、ただ皆さんの意見を引き出すための呼び水だと考えています。適切ではないところがあれば、同修達に慈悲なるご叱正をお願いします。

 実は、どの同修にも優れてキラキラ輝いている部分があります。問題を指摘して、早く高め、ともに精進して行こうと促したいと思ったからです!!

 同修の問題点を見ると、自分を探さなければならないし、無条件に大法に同化しなければなりません!! これは私の少しの認識です。有難うございました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/5/384747.html)
 
関連文章