「私」から飛び出し 法に同化する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年11月16日】同修の交流文章を読んで、いろいろ考えさせられました。ここでは、大法に同化することについての自らの僅かな認識を述べさせていただきたいと思います。法に則っていないところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 最近、「自分は毎日法を学んでいるが、本当にどのように大法に同化しているのだろうか?」と考えました。大法に同化するとは、「頭に法がいっぱい入っていて、出会うすべてのことを法に則って考え、正念で対処する、つまり、一思一念、一言一行、すべて法に基づいて行なうことだ」と私は理解しました。しかし、言うのは簡単ですが、実際にしてみると、とても難しく感じました。なぜなら、時には意識していない問題もあり、時にはそれが分かっていても、法の要求通りにできなかったからです。

 例えば、この1、2年、人々に面と向かって真相を伝えようと思い、そうすべきだと思いました。しかし、街に出かけ、すれ違った人を見ても、口を開いて伝えることができませんでした。頭の中にいつもある様々な観念に妨害され、ずっと関門を突破できず、私はとても悩みました。

 原因を掘り下げてみました。「出かけて真相を伝えるのは人を救いたい気持ちがあるからであり、三退すればその人が救われる。これは師父が私たちに要求された三つのことの一つで、大法弟子として果たすべき使命である。しかし、責任感、使命感、人を救う緊迫感が強くない。それはなぜだろうか?」と私はとても困惑しました。

 最近になって、やっと少し分かってきました。これはまさしく同修が文章の中で言った「大法に順応したが、同化していない」ことではないかと思いました。大法に同化した生命は新しい宇宙の理に符合し、基点は他の人のためとし、法を正す師父を積極的に手伝い、法を実証し衆生を救い済度することを自分の使命とし、衆生に対する責任感も強く、人を救うことが非常に差し迫っていると感じます。

 一方、自分の考えをチエックしてみると、多くの場合、受動的で、自分のための部分が多くあると思いました。「師父がこうしなさいとおっしゃったから、しなければならない」、「しなければ将来いい結果につながらない」、「自分と縁のある人を救わなければ、将来きっと後悔し、大変辛いのではないか?」。これは自分のために人を救っているので、「私」のためではないかと思いました。「私」のためは旧宇宙の特性です。「私」のための基点に立って行なえば、人を救うことができますか? 法を正す修煉を長年してきましたが、自分は片足を新しい宇宙に入れ、もう片方はまだ旧宇宙に残っているように思いました。

 この点を認識してから、もっと法を学び、妨害を排除し、心を静めて法を暗唱し、生命のミクロから表面まで法に同化して、ようやく自分を本当に変えることができるのです。そして、「今から、法を学ぶ時、発正念をする時、真相を伝える時、さらに出かける時の服装から人と接する態度まで、すべての点において、他のため、法を実証し衆生を救い済度するための基点に立って考えよう」と思いました。

 刑務所に1年ほど不当に拘禁されました。出所してから、「必ず精進して、もう旧勢力に迫害されないようにしよう」とばかり考え、結局、そのために修煉してしまい、やはり旧勢力が按排した道を歩んでしまいました。私は大法弟子です。師父の弟子です。師父が按排された道しか歩みません。「私」から飛び出し、名、利、情から飛び出し、人の理から出て、ようやく大法に同化することができるのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/19/394762.html)
 
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