「漏れがあっても妨害されることを許さず」を考える 
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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2019年11月25日】多くの交流文章の中に「悪人が自分を迫害する時、あるいは、自分の体が酷い病業などの妨害がある時」の内容に触れたとき、このような言葉がよくあります。「もし、私に漏れがあれば、私は法の中で自分を正します。妨害や迫害などのことを絶対許しません」。本当に自分を法の中で正せばいいのですが、多くの場合は、学習者が旧勢力の按排を否定することだけを強調していることです。しかし、師父は法の中で強調されているのは「内に向けて探せば、問題を根本的に解決することができます」と説かれています。

 一、『二〇一八年ワシントンDCでの説法』の講法

 弟子:大法弟子が魔難に遭うとき、まず内に向けて探すのではなく、正念を発するべきだと考える大法弟子がいます。まず内に向けて探したならば、旧勢力の思う壺にはまったのだと言っています。

 師父:(師父が笑って)私はいつも、問題に遭ったらまず自分を探すべきだと言っています。(師父が笑って)自分自身に問題があるかどうかを見て、あればすぐに改めるべきです。正念を発することは、ある事を妨害する魔、または本当に魔が妨害していると分かって、本当に魔がいると分かっている場合、正念を発してもよいのです。しかも、いかなることに対しても正念を発しないでください。自分が間違っているのに、正念を発していれば、その正念に本当に作用があれば、あなたがやられてしまうのです。(師父が笑って)

 ニ、『アジア太平洋地区学習者会議での説法』の講法

 弟子:難に遭ったとき、これは自分の業力によるものなのか、それとも旧勢力の按排なのかが分かりません。

 師:旧勢力の按排か業力なのかにかかわらず、まず自分を考えるべきです。皆さんが正念を発する時でも、まず自分をきれいにするようにと私は教えました。まず自分を見て、自分に問題があれば、それを正しく対処すればよいのです。この場合、旧勢力にも成す術はなく、あなたの弱みを掴むことができず、自ずと止めてしまいます。もちろん、現在旧勢力が妨害をやめたとしても許すことができず、徹底的にそれらを根絶すべきです。正念を発して自分をきれいにしてから、旧勢力を根絶してください。(拍手)

 三、『北米での巡回説法』の講法

 弟子:二つのことについてお聞きしたいのですが、一つは、一部の国外の大法弟子の親族や友人は煉功したことがありますが、迫害されてから次第にやめてしまいました。彼らは今どのようにすべきかを知りたいと思っています。もう一つですが、一部の精進している弟子に、時に重い病業が現れています。これが自分自身の業力なのか、それとも邪悪の破壊なのかを彼らは知りたいと思っています。また彼らはどのようにこの問題に対処すべきなのでしょうか。

 師:一つ目のことですが、どのようにしたいかということは、彼ら自身で決めなければならないことであり、彼ら自身にかかっています。二つ目のことですが、どんなことにぶつかっても、まず自分をみるのです。これが大法弟子の常人と異なっている最も大きなところです。もし、自分に本当に問題がなければ、それはきっと邪悪による大法弟子に対する迫害に違いありません。特に現在法を正す時期において、大法弟子の業力は既に問題になりません。邪悪生命による迫害をはっきりと認識しなければならず、彼らは本当に悪事を働いています。大法弟子はできるだけ自分の道を正しく歩み、邪悪に迫害の口実を与えないようにしたほうがいいのです。

 私の悟りでは、自分がしっかり行なっていなければ、迫害された口実になると思います。つまり、たとえ自分がしっかり行なわなくても迫害や妨害を否定すれば乗り越えられるというわけではなく、まず自分を正してから迫害されないということです。

 師父は、旧勢力の按排を否定する法を説かれましたが、私個人の悟りでは、自分の努力を通して早めに認識を高め、法に則って自分を正すことに従えば旧勢力の迫害の口実がなくなるため、その妨害や迫害を排除したことになるということです。

 もし「漏れがあっても、妨害を許さず」このことを強調し過ぎると、妨害や迫害にあった時、発正念で妨害や迫害を否定することだけを重んじてしまい、内に向けて本当の原因を探すことを見逃しやすくなってしまいます。

 一部の同修は、体に酷い妨害を受けている同修を励ます時「誰にも漏れがないですか? 誰でも漏れがあるでしょう。漏れがあっても、妨害を許しません」という話しをすれば、難儀中の同修は内に向けて探すことが難しくなってしまいます。しかし、しっかりと内に向けて本当の原因を探さなければ、難儀を乗り越えることが難しくなってしまい、それでは同修の助けにならなくなります。難儀中の同修は長年学法や煉功をしっかり行なっていない人がいます。これはどのぐらいの漏れでしょう。もし認識できなければ、単純に発正念で妨害や迫害を否定することは、それは本当にできるでしょうか? 多くの例から見れば、否定できないことは確かです。

 難儀の中で内に向けて探すことは難しくて辛い、そして問題点がなかなか見つからないことは確かです。この時、もし簡単にそして万能な方法があれば、例えば発正念という方法で人は往々に簡単な方法を選択することになります。

 修煉は厳粛なことです。大法弟子の要求も高いのです。しっかり修めることこそ次元を高められ、妨害や迫害を否定することができます。もし、発正念して否定することを修煉の近道としていれば、自分の修煉に支障を来すことになります。

 個人の悟りですので、不適切なところがあるかもしれません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/1/395272.html)
 
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