一度生きた状態で火葬場に送られた劉偉珊さん 死亡
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 【明慧日本2020年3月11日】湖北省襄樊2010年12月、襄樊市から襄陽市に改名された)の法輪功学習者・劉偉珊さん(女性・チワン族)は2002年10月、襄樊市(じょうはんし)裁判所に懲役4年の実刑判決を下され、武漢女子刑務所に収容された。さらに襄樊市刑務所で残酷な迫害を受け、精神障害を患った。2006年1月、劉さんは極秘で襄陽市航宇系統364航空医院に移送され、表向きでいう「治療」を受けたが、寝たきりになってしまった。2011年8月、湖北省襄陽市610弁公室の指示で、劉さんは生きていたまま火葬場に送られた。そこで、火葬担当の作業員は劉さんはまだ生きていることに気づき、火葬を拒否した。しかしその後、2019年10月28日に、劉さんは冤罪の晴れないまま同病院でこの世を去った。

'被监狱迫害瘫痪在床的刘伟珊'
迫害により寝たきりになった劉さん

 劉さんは襄樊市漢江机械工場(現在の中航工業航宇救生装備有限公司)所属学校の元教師で、英語・化学・音楽・地理・歴史を担当していた。劉さんは仕事に対して真面目に取り組み、数回にもわたって省の優秀教員に選ばれたことがあり、同僚や生徒からの評価も高かった。

 以前の劉さんは病弱で、1994年に胆のう摘出手術を受けたが、1999年の初め、法輪功を学び始めたことで僅か3カ月で健康を取り戻し、元気な体になった。同僚達も皆そんな劉さんの変化を目の当たりにした。

 数回も連行され、拘禁された

 1999年7.20から、中国共産党の江沢民グループは法輪功迫害を開始した。劉さんは中国共産党が法輪功に対して行なった嘘の宣伝に欺かれた人々に、法輪功の真実を話し、テレビの嘘を信じないようにと勧めたが、それが元で、漢江机械工場内に軟禁された。

 2000年のある日、劉さんの職場の掲示板に「全世界で江沢民を審判する」という一枚の紙が貼ってあるのを見て、工場リーダーと610弁公室の人員が結託して、出勤途中の劉さんを連行した。劉さんは断食してこれに抗議したため解放されたが、それ以後、毎月100元の生活費しか与えられなかった。

 2000年12月16日、劉さんは「学校に戻れ」という通達を受け取り、学校へ行った際に、校内で連行され、襄樊市「法制教育班」に送られた。そこで、劉さんは襄樊市公安局の警官・聶暁武に縛られ、猛打された。その後、劉さんは漢江派出所に移送され15日間行政拘留された。

 2001年7月3日、劉さんは机械工場保衛科の人にトイレから保衛科に連れられ、「襄樊市政府が事情聴取することがある。24時間内には戻れるから」と騙され、襄樊労働教養所に送られた。教養所で劉さんは61日間拘禁された。その間、立つこともできない小さな鉄の籠に5日間も入れられた。

 2002年4月のある日、漢江派出所の警官らは劉さんの家に押しかけ、法輪功書籍を押収した。同年5月、襄樊市検察庁は劉さんに逮捕状を出した。そして、劉さんは数人の警官らに持ち上げられてパトカーに押し込まれ、留置場に送られた。留置場で劉さんは断食をしてこの迫害に抗議をしたが、襄樊市第一病院の救急科に送られ、2週間ほど灌食されて健康状態が悪化した。

 懲役4年の実刑を受け、刑務所の迫害より精神障害になる

 2002年9月14日、劉さんは法輪功の資料を配布した際に、警官らに連行され、襄樊市第一留置場に拘禁された。これは劉さんにとって7回目の連行となった。留置場で警官は数人の剛力な受刑者を使って、劉さんの頭、手足を動けないように強く押さえ、劉さんの鼻から胃にチューブを入れて灌食した。また、受刑者らは警官の指示を受け、劉さんの体をつねったり、髪の毛を引っ張ったり、ビンタを食らわせたりした。警官はトイレに行くのが便利だという理由で劉さんの服を脱がし、シーツ1枚だけを与えて身にまとわさせ、1日に2回も辛い灌食を行なった。しかも、胃に挿入したチューブをそのまま放置し、15日に1回しか取り換えなかった。そしてチューブを取り換えるとき、チューブの下半分が黒く変色していたほどである。劉さんはこの状態で40日間も苦しめられた。

酷刑演示:野蛮灌食
拷問の再現:野蛮な灌食

 劉さんは拘禁されている間、漢江机械工場の書記・胡代新は「610弁公室」に依頼し、「今回、610弁公室が劉偉珊を釈放さえしなければ、お金をいくら払ってもいい」と言った。

 2002年10月13日、体が極度に弱っている劉さんは持ち上げられて留置場の庭に置かれ、ここで極秘に懲役4年の実刑判決を言い渡された。翌日、劉さんは武漢女子刑務所に送られ、収容された。

 武漢女子刑務所は法輪功学習者に対する迫害の手段がとても酷く、「転向」しない学習者を辺鄙な場所にある独房に入れた。その際に、両腕を背中に回して手錠をかけ、そのまま数日間も放置し、食事も睡眠もはく奪し、それを見ても警官らは知らないふりをした。学習者たちが断食して迫害に抵抗をみせると、警官は受刑者らが食べ残したものや腐敗した食べ物などを、学習者たちに灌食した。このような精神的にも肉体的にも残忍な迫害の下で、多くの学習者たちが精神障害者になり、中には死に至る人もいた。

中共酷刑示意图:注射药物
拷問のイメージ絵:内容不明な薬物を注射される

 刑務所に数カ月間拘禁された劉さんは精神異常になり、痩せこけて生理が止まり、手が震え、両足をまっすぐに伸ばせず、自立生活ができなくなった。しかし、警官は劉さんが刑務所で死ぬことに責任を負うことを恐れ、劉さんを医務室に引っ張っていき、成分不明の薬物を注射した。灌食のときも不明な薬物を混ぜて灌食し、チューブの挿入の際に劉さんの食道をひどく傷つけた。

 病院のいわゆる「治療」で寝たきりにされる

 2006年1月31日夜、危篤状態の劉さんは密かに襄樊航宇系統364航空医院に移送され、いわゆる「治療」を受けた。

 入院中の劉さんの名前は「無名氏」と書かれ、毎日2人によって24時間監視された。劉さんの同僚、生徒、友人が見舞に行ったが、極度に痩せて全身が痙攣し、意識が朦朧とした劉さんを見て、皆が驚いた。

 しかし、2006年2月11日以後、劉さんの病室の扉には「危篤患者のため見舞いを禁止する」と書かれた。

 劉さんはいわゆる「治療」を受けた末に、寝たきりになった。筋肉が萎縮して腰が弓のように曲がり、足も曲がってしまい、精神異常者にされてしまった。劉さんは単語しか話せず、看護の人にかすかな声で「家に帰りたい」と言ったという。

 それで、610弁公室の人が劉さんの家族に連絡し、帰宅させようとしたが、家族は「連行された時は元気だったのに、なんでこんな風になったんだ」と拒否した。

 生きたまま火葬場に送られる

 2011年8月、364航空医院は郊外から市内の新しい建物に移転した。364航空医院側と湖北襄陽市「610弁公室」は結託をして、生きている劉さんを火葬場に送るように命令を下した。

 しかし、火葬担当の作業員は、劉さんの心臓が動いているのを見て、まだ生きているのを発見し、火葬を拒否した。それで、劉さんはまた364病院に戻された。

 話によると、364航空医院の書記は元襄樊市漢江机械工場の副書記と同一人物だった。「610弁公室」の担当は樊智勇である。

 劉さんは364航空病院6階10号室に監禁された。2013年の旧正月前後、劉さんの同僚数人が病院へ行き、見舞おうとしたが、610弁公室の人員と病院の書記に雇われた女性看護師に、「誰も見舞うことができない。上からの指示だ」と断られた。

 2013年、劉さんは完全に植物人間の状態になり、食べることも飲むことも出来なかったが、病院側は何の治療も行なわなかった。

 そして、劉さんは最終的に中国共産党の残虐な迫害から逃れられず、2019年10月28日朝、364航空病院で死亡したという。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/3/5/402024.html)
 
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