「捧げる」と「送り届ける」について感得したこと
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年7月29日】今日、私が『轉法輪』の中の「われわれは今日こんなに素晴らしい功法をあなたのために持ち出し、しかもわたしがすでにそれをあなたの目の前に捧げて、あなたの家の玄関口まで送り届けているのです」[1]を暗記した時、思わず涙が出ました。「捧げる」と「送り届ける」の文字がとても目立っていましたので、私はこのニつの文字から「慈悲」、「誠実」、「大切」、「何も求めず」、「艱難や困苦を恐れない」を感じ取ったのです。

 「捧げる」という動作は、両手を揃え手のひらでくぼみを作り前に差し出します。通常、私たちは大切なものに対して、ぶつかることや触れること、そして傷つくことも怖いので慎重に捧げているのです。私たちが尊敬する相手のために何かを持ち出したいときは、両手でものを捧げることになります。もし心を込めていなかったり、敬意を持っていなければ、この「捧げる」という動作は表現することができないと思います。この「送り届ける」ということは、遠くても、辛くても、苦労をしてでも、相手を見つけて相手のところに渡す過程だと思います。

 同修たちよ、私たちは大法の本を雑に扱ったり、無造作に置いたり、押さえつけたり、不潔なところに並べたりすることがあったりしてはいませんか? このような行為のすべては、大法の本に対して、「捧げる」という敬意を持っていなかったのではないかと思います。

 私たちが師父の法から何かを悟ったこと、或いは師父が私たちに大法の深い意味を教化してくださったことなど、それらのことを他の同修に伝えたい時は、「捧げる」の心理状態で同修に持ち出すべきです。もし、自己顕示する心や人を責める心、或いは一種の物質的な利益として交換するとか、上目線で人を教え導くようでしたら、これは「捧げる」とは言えません。同修の交流(法に基づいて悟ったもの)を聞いた時は、同じく敬意を持つべきです。これこそ師父と大法への尊敬を表すことだと思います。

 大法の内包は無限です。以上は現段階での個人的な認識です。同修たちと励まし合いたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/25/385532.html)
 
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