「最後になればなるほど精進する」について感じ取ったこと
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文/湖南省の大法弟子

 【明慧日本2020年7月31日】昨日、友人(常人)からメールが届きました。その中でのある言葉は、私を大いに揺さぶりました。それは「人は成功したければ、希望が見えてから頑張り続けるのではなく、頑張り続ける中で希望が見えるはずです」というものでした。

 夜、私は「蓮の花の定律(自然法則)」というある文章を読みました。その内容は「蓮の花は池の中で、1日目はわずかな蓮の花を咲かせますが、次の日になると前日の2倍の花が咲き、その後も毎日、前日の2倍の花が咲いていきます」というものでした。

 それでは、ここで問題を出します。30日経ったとして池のいたるところ蓮の花だとします。では何日目で、半分の蓮の花が咲いたでしょうか? 多くの人は15日目という答えでしたが、間違っています。答えは29日目でした。

 これは有名な「蓮の花の定律」で、「30日定律」とも呼ばれています。蓮の花の定律は私にシンプルな道理を教えてくれました。最後になればなるほど精進するものとなります。最後になって、それは運気と賢さによるものではなく、それは堅持と根気によるものなのです。粘り強く続けると、量的変化から質的変化に至るのです。

 中国ではある言葉があります。「百里を行く者は九十里を半ばとする」、その意味ですが、百里を歩く人は九十里を歩いてやっと道程の半分を歩いたと見なす、ということです。これと「蓮の花の定律」は同じ道理であって、物事は最後の段階に近づけば近づくほど気を緩めてはならないということです。

 修煉は偶然なことはなく、すべては必然的になります。私は、友人からのメールとこの文章を読んだということは、師父からの教化だと思いました。修煉の道は緩めてはいけません。そして最後になればなるほど堅持すべきで、自分の修煉状態を調整すべきだと思いました。

 今年の2月26日、私は街で法輪功真相を伝えていた時、バイクとぶつかり腰の痛みを感じました。これは旧勢力からの妨害だとわかりましたが、私は旧勢力の按排を否定し悪いことは良いことにしました。しかし、具合が次第に悪くなるにつれて自分は病人だと思ってしまいました。休みたい、楽になりたい、怠けたい、苦痛に耐えたくないなど、安逸心が出てしまいましたが、幸い師父は直ちに棒喝をしてくださいました。

 師父は「修煉とは神の道を歩むことであり、あらゆる人心は障碍なのです。しかし、私たちの道は非常に狭く、少しでも油断すれば道から外れてしまいます。外れてしまうと、問題、場合によって大きな問題を引き起こします。戻ってこられなければ、未来永劫の悔いとなります」[1]と説かれました。

 師父の経文『再び棒喝』を読んでから、私は多くの人心を見つけました。私は自分に言い聞かせました。それは、「くれぐれも人心があってはいけない。円満成就する前に私はただ一人の人間であり、千万年、億万年、待ち望む中で生生世々の苦を耐えている中、最後の残り少ない道の中で、私は正しく歩むことができるかどうか、しっかり歩むことができるかどうかを見る」ということです。

 師父の要求に従って行ないます。多めに学法をします。絶えず精進し、更に精進します。苦に耐えることを恐れず、頑張り続け、絶えず自分を向上させ、使命を実行するときは絶えず突破します。師父に合格だと言って頂けるような答案を出します。

 今は、法を正す最後の最後の時期になりました。成功まであと少しです。くれぐれも緩めないように精進しなければなりません。必ず堅持し、必ず正しく歩みましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/23/409383.html)
 
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