学法、実修、悟りを開く
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2020年9月7日】私は同修や常人といるときは修煉者の基準で自分を律することができますが、家族といるとついつい怠けてしまいます。特に夫婦間において、自らを修めなければならないと認識しているものの、認識しただけで、時には言い争ったりします。修煉において、厳しく自分を律しなければ、次から次へと機会を失っていくのです。

 一、実修せず、人心に隙をつかれる

 去年の夏のある日、同修の家から帰宅の途中、孫にスイカを買ってあげようと少し寄り道をしたため、お昼の12時を少し回ってから家に着きました。扉を開けた瞬間、夫が怒鳴りました。「今何時だと思ってるんだ! 今まで何をしていたんだ!」などと、文句を言っているうちに汚い言葉まで出てきました。夫が怖いのを知っているので、何も言わずにお昼ご飯を作りました。私が何も反応しないのを見た夫も、そのうち気が収まりました。それからは、お昼の時間になるとすぐに家に帰るようにし、夫が文句を言っても気にしないようにしていました。しかし、状況が段々と悪化していったのです。時々、些細なことで怒鳴り、私は気にしないようにしていますが、どうしても我慢できずに、ついつい言い返してしまうことがあり、それがさらに夫を怒らせました。

 前はもう少し冷静でいられたのにと思った瞬間、もしかすると、師父が夫の口を借りて、私に何かを気づかせたいのではないかと悟りました。

 冷静になって内に向けて探し始めました。夫との間に漏れがあり、真剣に自分を修めていないことは前からわかっていましたので、夫と言い争わなければいいと思っていました。しかし、心の中の不満を見逃していたのです。夫はなんて理不尽なのか! 人を尊重することを知らない、相手にするだけ時間の無駄だ! あなたの好きなようにすればいい、とずっと思っていました。しかし、これでは自分の不足を探していることにはなりません。表面上、言い争わないものの、実際は自分を修めていなかったのです。これを魔難とみなし、仕方なく忍耐しているだけで、無意識のうちに恨む心や嫉妬心を強めていました。表面的な幻に惑わされて、修煉を疎かにしていたのです! 真面目に法を勉強し、自分を正さなければなりません。

 「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」[1]という師父の説法を勉強して、自分はなぜ「どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」のようにできないのかを考えました。これまでの修煉を振り返ってみると、真面目な気持ちで修煉しておらず、人心の隙を突かれても、自分を修めようとせず、却って恨む心が溜まっていくだけでした。これでは、「にこにこ」でいられるはずがありません!

 二、師父の啓示

 師父は「皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[2]と説かれました。師父の説法を唱えていくうちにふと悟りました。人間界の理は真理とは逆になっているのです! 50年余り私を苦しめていた「もの」(若いころ、夫の母との摩擦により、少しでも気分が悪くなると、息苦しくなること)が瞬時に崩れ落ちたのを感じました。心がとても楽になり、気分もすっかり晴れ上がり、これまでにない気持よさを感じました。その時の驚きはとても言葉に言い表せません。ひたすら涙を流しながら、「師父、ありがとうございます!」と師父に感謝することしかできませんでした。

 師父のご啓示により、以前、心性の関を乗り越えるときのすっきりしない気持ちや、内に向かって自分を探すときに感じた苦しみや難しさ、そして、自分は間違っていないのに、なぜ私のせいにしたり、理不尽なことに遭ったりするのかなど、これらすべての原因が分かりました。それは常人の理にはまり込んでいたからです。修煉とは常人から抜け出すことなのです。視点を変えて再び以前のことを振り返れば、すべて私の恨む心や嫉妬心、面子を重んじる心、自己中心的な心などを取り除くことなのではないでしょうか。根本的に観念を変え、自分で実践してこそ常人の状態から抜け出せるのです。

 振り返ってみれば、これまでの恨みや苦しみ悩みなどがすべて消えていき、今では思い出すことも難しくなりました。まるで遠い昔の記憶のようです。夫も昔のように些細なことで怒ったり、罵ったりしなくなりました。たまに文句を言ってもすぐに機嫌が直り、また、にこにこするようになりました。私が不満をこぼしても夫は怒ることなく、毎日の家事なども手伝ってくれます。

 今、ようやく師父の「心の中で相手に対して本当に感謝しなければなりません」[1]という説法の意味が分かりました。

 大法の法理の前では、いかなる人の理論も無力になり、どのような恨む心もすぐに解決されます。なぜなら、これは宇宙の理だからです!

 これまでの修煉を振り返ってみて、修煉の厳粛さが分かりました。学法を通じて実践し道を悟らなければなりません。学法しただけで実践しなければ、何も悟ることができません。法理を明白に理解するには、まず、苦を嘗め心を修めなければなりません。しっかりと修煉の道を歩んでこそ、法理が現れてくるのです。

 苦しみながら内に向けて自分を探す過程は、すべての観念を覆し、新たに生まれ変わり、真に常人から抜け出す過程であり、そして、法を実証する過程でもあると悟りました。

 師父にお線香をあげ、写真の前に跪いたとき、涙が溢れました。多くのことを師父に話したくても、いざ口を開くと何を話していいのか分かりません。ただ師父への感謝の気持ちで胸がいっぱいです。

 師父は「トラブルに遭うと、責任の所在に関係なく、まず自分を見るべきです。修煉者として、この習慣を養うことができず、常人と逆の角度から問題を見ることができなければ、あなたは永遠に常人のままです。少なくとも、正しく行なわなかったその時はあなたは常人です」[3]と説かれました。師父の教えを心に刻み、師父の慈悲と恩恵と期待に報えるよう、最後の一歩までしっかりと歩んでいきたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/21/410771.html)
 
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