文/中国の大法弟子 大慧
【明慧日本2020年9月18日】1997年、私は娘と一緒に師父の済南での説法の録音をはじめて拝聴しました。はじめて拝聴した時、大きな白い扇風機が頭上で回転しているのが見えましたが、上には竜巻のような風の柱があり、何なのかわからず、またあまり気にしませんでした。九講を拝聴し終わり、法輪功は人に良い人になるように教えていることを覚えました。たまたま隣人に法輪功を煉功している人がおり、その隣人は私が見たその大きな扇風機は法輪であると話し、私の根気がよいと話し、しっかり学ぶように言いました。このようにして、7月(訳注:1997年7月)、私はその隣人と学法点と煉功場に行き、正式に法輪大法の修煉に入りました。
私は当時商業高校で教鞭をとっており、本校の指導業務以外に、さらに市内の三つの大学で非常勤講師をしており、特に忙しかったのです。私は真・善・忍に基づいてよい人になり、同僚と学生の支持を得ました。
朝の煉功をする時、朝起きるのに苦労し、奇跡的に4時10分になるたびに、私のベッドの近くにあるヒーターが「ドン、ドン、ドン」と優しく鳴り、それでも起きないと、寝室のドアが「バン! バン! バン」という音を立て、誰かがドアをけっているかのようで、私は驚いてすぐに起き上がり、テープレコーダーを持ってくる輔導員にまた電話を掛けました。それ以後、さまよって身を落ち着ける所がなかった時でさえ、毎朝いつも木魚の音がし、起きて煉功するように師父が私に注意してくださっているのだと知りました。師父はいつも弟子のそばにいらっしゃいました!
2カ月間学法した時私は一度事故に遭い鎖骨を骨折しました。医者は私の頭の右側を4針縫いましたが、1カ月たたないうちに全快し、仕事に影響しませんでした。
娘はひどいリウマチにかかり、全身の筋肉が萎縮して動けなくなり、すでに瀕死状態でしたが、師父の説法を拝聴した後に生き延び、行動能力の一部を回復しました。
1999年「7.20」江沢民を頭とする中国共産党(以下、中共)邪悪政権が法輪功および多くの大法学習者に対する迫害を開始し、その晩私は省政府に陳情に行き、呼んだタクシーは高速道路の入り口で遮られて帰り、私は公安局に連れて行かれました。中共による師父と大法に対する誹謗中傷は私の心を傷つけました。私は中共が行なう悪には限りがないことを深く知っていましたが「考えてみると大法を修煉できなければ、限りない悲しみを感じ、生きていても意味がない」と感じ、それによって自分の生命がすでに深く大法に溶け込んでいることを実感しました。これは私が初めて不当に連行された時の気持ちでした。
私は合わせて6回連行され、何度も家宅を捜索され、すでに身を落ち着ける所がなくなって4年でしたが、今まで修煉しないと言ったことはありません。困難な歳月の中、大法弟子として、私は同修たちと絶えず衆生の善念を目覚めさせ、たとえ逮捕するために家宅捜索に来た警官にも、大法のすばらしさを伝え、同時にまた人々の良知が残っている一面を証明しました。
一、真相を聞いて理解した警官と兵士
2回目に連行されたのは2000年1月19日でした。私は同修と北京に行って法を実証することを話し合い、私たち18人が連行されました。警察署で、ある警官は表情が凶悪で、ずっと人を罵っている警官がいわゆる「保証書」を私たちにサインさせ、同修2人はサインを拒絶したため、顔を殴られて赤く腫れあがりました。私は紙を手に持ち「私は保証書を書きません」と書きました。
翌日の晩、警察署長がもう一度私を呼び出し、私が入って行くと署長は怒鳴りました。私は生まれてから初めてこのような経験をし、涙を流しながら署長に「私がどんな先生であるかを、学校に行って尋ねてみてください。どうして私が法輪功を修煉するのかあなたは知っていますか?」と言いました。私は続けて「私の娘が大学で勉強していた時、家族の遺伝病にかかり、私はお金をすべて使いつくし、中国国内の名医を探しつくしてもよくならず、娘はもうすぐ死にそうでした。この時ある人が私たちに法輪功を紹介し、結果法輪功を修煉してよくなりました」と言いました。
この時署長は一言も言わず、最後に私が言ったことを実際に記録しました。しかし私はやはり署長によって留置場に入れられましたが、路上では手錠をかけられませんでした。
留置場に来て2日目、多くの警官が私を尋問し、法輪功を修煉しないという「保証書」を私に書かせようとしましたが、私は「法輪功を修煉させてくれない人は誰であろうと相手にせず、江沢民(悪の党首)が法輪功のことをどう言おうが関係なく、私はただ修煉を続けるしかありません」と言いました。警官(訳注:署長)は笑い「あなたが保証(訳注:保証書)を書かないのなら、修煉体験を書いてください」と言いました。私はなぜ法輪功を修煉するのか、大法の超常さ、私と娘が受けた恩恵などをすべて書きました。署長はそれを見て「あなたが書いたこれは法輪功を賛美している!」と言い私が書いた体験を持って笑いながら出て行きました。
2カ月後、私は3回目の連行を受けました。その時はA県の警察が行ないました。当時私は非常勤講師をしている大学の卒業生の卒業写真をちょうど撮っており、私を連行した理由は私がかつて煉功した県のある同修の家に5分間滞在したというものでした。警官たちは私の家を家宅捜索しました。当時私の家には中共あてに書いた長文の意見書があり、内容はすべて大法がいかに素晴らしいかを伝える真相でした。
法輪大法を修煉することについての奇跡的なことについて警官たちは私に尋ね、私は中共あてに書いた長文の意見書のことを伝え、ずっと朝の4時まで話しましたが、警官たちはやはり私を地元の留置場に送りました。途中で案件を担当する警官は「以前に大法が素晴らしいことを聞き、どのようにすばらしいのかわからず、あなたのこの話を聞いて、法輪功は確かに素晴らしいとやっとわかった」と言いました。
留置場に拘禁された四十数日の中で、誰も私を尋問しに来ませんでした。警察が家宅捜索をしたその日、家には娘だけがおり、私は一人の警官に「私の娘はどうでしたか?」と聞きました。車を運転していたその若い警官は手に持っている物を机の上に叩きつけ、大声で苦しそうに「私に聞かないでくれ!」と言いました。
案件を担当する警官はその後私に「あの日は娘さんはひどく泣いており『あなたたちを兄と呼んでもいいし、おじと呼んでもいい。私たちはほぼ同じ年齢ですから、私のために『轉法輪』を残してください!』と言っていました」と言いました。私は「残してあげましたか?」と聞きました。案件を担当する警官は「残しました」と言いました。
当時北京はちょうど「両会(訳注:全国人民代表大会と中国人民政治協商会議)」が開かれており、私たちは法輪功問題について正確に処理するよう求める署名を集めて両会に送る予定でした。署名のフォームは私がデザインして作成しました。私は余った空白の署名フォームを私の指導プランの真ん中に挟みました。私が戻った後、誰かがこの数枚のフォームを見つけて指導プランの上に置きました。これは、警官たちがフォームを発見したが持って行かなかったということを説明していました。
後日ある同修を救うために、私はまたあの車を運転していた警官に会い、私はその警官を叩いて「ありがとうございました!」と言いました。その警官はすぐに理解し「私は見なかった」と言いました。
留置場に拘禁された時、食事を持ってきた人が私を知っており、その人は小さな窓から私を見つけ「○○先生、先生でしょう!」と叫びました。それから毎食出てくるのはいつも炒め物2種類とたくさんのマントーでした。これらの料理は当然、同修と犯罪容疑者と一緒に食べました。留置場を出た後、私は食事を持ってきてくれたこの人のために感謝を込めて服を買いました。
4回目に連行されたのは2000年10月1日の連休期間でした。北京の同修が私たちに2棟の家を貸してくれ、私たちの地元に多くの同修が来て、10月1日から、天安門広場で横断幕を広げ、私は警察と面と向かいましたが、捕まらず、夜になって私は「私は責任を負っており、さらに同修が続々と北京に来るはずで、さまざまなことを準備するのに私の助けが必要だ」と理解しました。全国各地から来る学習者が多く、切符や航空券を買えず、大型バスを借りてやってきたり、歩いてきたりして、10月6日、ピークに達しました。
天安門広場のあちこちどこにでも横断幕を広げ「法輪大法はすばらしい」と叫ぶ同修は、上は80代の老人から、下は若い母親に抱かれた赤ちゃんまでいました。警官と私服警官は走り回り、疲れて息ができなくなっていました。十数人の警官に加え私服警官が私をイベコ(訳注:車のメーカー)車に引きずり込もうとしましたが、私は乗らず、警官たちは私を引きずり、ひとしきり暴力行為を行なったので、私は頭を殴られて腫れ上がり、肩と臀部が広範囲に打撲で黒ずみましたが、不思議なことに痛みを感じませんでした。
警官たちは私をまず天安門警察署に連行し、その後再び私を車に押し込んでどこか知らない場所に送りました。私たちは窓を開けて「法輪大法はすばらしい」の横断幕を窓の外に広げました。車上の武装警察はそれを許さず、さらに人を殴りました。私たち数人は武装警官の両手をつかみ「ちょっと、こんなことをしてはいけません、法輪大法は素晴らしく、全国で1億人に上る人が修煉しており、中共は修煉を許しませんが、私たちは平和的に陳情して、間違っておらず、憲法は信仰の自由を規定しており、私たちは合法です。この点をあなたはよくわからないといけません。私たちはみなこの年齢であり、あなたの年長者の年齢に相当し、あなたは私たちを殴ることはできません」と言いました。私たちの話を聞き、兵隊であるその武装警官たちはみな動かずに立っていました。最後に、私たちを門頭溝公安支局に連れて行きました。
翌日私はなぜ出て行かなければならないのか理由を覚えておらず、歩哨に立つ軍人が「おばさん、あなたはどこから来たのか言わなければならず、言わなければ遠くまで連れ行かなければならない」と言いました。数年後に中共が組織的に行なっている法輪功学習者の生体からの臓器狩りのことを知り、門頭溝公安支局のあの歩哨に立つ軍人が言ったあの言葉を思い出しました。
二、数人の優れたリーダーとすばらしい同修たち
私たちの校長は若い男性の校長でした。いつものように毎学期学校が始まる時に全校集会が開かれることになっていました。3回目に連行されて私が戻ってきた後、校長は前もって私に会い「あなたのこと(法輪功を修煉していること)について触れておかなければならないことがあります」と言いました。集会が終わった時、校長はただ一言「○○先生は法輪功を修煉しているために逮捕されました」と言い、何のコメントもしませんでした。
私が3回目に連行された時、校長は警察が来る前に、私の事務所のドアを開けて『轉法輪』を持って行きました。その後、校長は学校の指導者を何人か連れてAという場所に行き解放を要求し、警察に「私たちの先生は素晴らしく、学校の指導者と教師はみな彼女のことを気にかけており、私は今日彼女を連れて帰ります」と言いました。警察は応じませんでした。校長は「いつ釈放されるのか、私に電話をください、私が迎えに来ます」と言いました。校長はさらに生活用品を買うために私に100元くれました。
私はAという場所から地元の留置場に移送され、再び半月拘禁され、仕事に戻ってきた後、校長は『轉法輪』を私に返し、私が書記事務所で働くよう手配しました。私は毎日出勤して掃除をし、ポットでお湯を沸かしました。書記は「好きなようにやってください」と言い、書記と校長が私を困らせたことはありませんでした。
夏休みの後、その校長は私たちの商業高校からある重点中学に校長として赴任して行きました。
引き継いだのはある女性の校長で、私は北京の天安門で垂れ幕を掲げて法輪大法が素晴らしいことを実証し、連行されたとき、学校が後方勤務(訳注:事務関係)の主任と校内の工場公安局の警官一人を派遣し一緒に私を迎えにきました。市の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)は私の職場にお金を要求し、タクシーで私を迎えに行くのに300元かかったと言いました。私は職場の後方勤務の主任に「私は地下鉄に乗って戻り、タクシーに乗っておらず、私は一銭もかけておらず、あなたは彼らに払う必要はありません」と言いました。主任は「彼がもしあなたを解放しなかったら、彼が欲しいものは私は何でもあげ、校長はすでにそのように説明していました」と言いました。
北京から戻ったのはすでに夜の8時過ぎで、その日はかなり寒く、多くの同僚が駅の出口で私を待っており、警官たちが私を別の場所に送り私に会えないのではないのかと恐れていた、と言いました。まず職場に行くと、公安局の警官20人がみな待っており、公安局の局長が私を取調室に送り、尋問する警官に「裁判はせず、○○先生が言ったことを、あなたはそのまま記録してください」と説明しました。その後直接私を留置場に送りました。
取調室から下に降りてみると、私たちの学校に新しく転任して来た校長と書記が2人とも来て、校長と書記は警備所のすべての人に食事をごちそうしました。その時規定では大法弟子を迎えるすべての費用は大法弟子本人によって負担されますが、私たちの校長は今回のすべての費用をみな清算し、私の車代も清算し、校長は私を出張扱いにしていると言いました。
その後、市の国保の隊長から「あなたがまだ帰宅しておらず、あなたたちの校長が解放するよう電話してきて、毎回いつも電話し、さらに何度も『殴ってはいけない』と強調していました。他の職場では職員が北京に行ったらすぐ解雇されると聞いているので、私は不思議に思っています。あなたたちの職場は毎回あなたを救済しに来ます」と言いました。
その後この校長は大工場の労働資本部の部長に昇進し、私たちの当時の全工場での最高位の女性リーダーでした。
2005年、私は職場に給与を求めに行き、職場はまた校長が変わり、それは男性の校長でした。校長は私がさまよって身を落ち着ける所がなかった39カ月分の給料をすべて私に支払いました。学校直属の上位部署は学校には私に少しだけ給料を払えばそれでいいとし、工場の書記、組織部長、学校の校長、書記が会議を開いて研究し、私に75パーセントの給料を払うことを決めました。労働資本部の部長に昇進したその女性校長は学校の書記に「○○先生の給料はみな袋に入っており、そんなに違わないでしょう?」と電話しました。書記は「あなたが決めることです、あなたが決めることです」と言いました。当時病気休暇を取って仕事をすると、やはり75パーセントの給料しか出ませんでした。しかし私の給料は1元たりとも誤算なくすべて私に支払われました。
その後その女性校長は私に私と女性校長の間のことを持ち出し、何年も前に、ある人が上海に行き私のためにシルクのシャツを持ってきてくれ、私が当時着てみると小さく、しかし女性校長は卒業したばかりで私たちの職場に配属され、私は女性校長に転売し、女性校長が一度着て洗った後また小さくなりました。その時シルクのシャツはとても高く、女性校長は仕事を始めたばかりで、買った服が着られず、大いに怒りました。私は女性校長から取り戻し、お金を校長に戻しました。私は忘れていましたが、女性校長は覚えていました。善は善を目覚めさせることができます。
三、学生たちを助けなければならない
4回目に北京に行って私を連行した警官を私は知りませんでしたが、その警官は、その警官が来た時その警官が同僚の○○が「私はあの人の先生です」と言ったと言いました。その警官は「それなら私もあなたを先生として扱います」と言い、ずっと私に対して礼儀正しかったのでした。当時ある同修の女性記者は妊娠3カ月をすぎていましたが、警官に冷水をかけられていました。私はその警官を探してこのことを話し、その警官は急いで人を探してコミュニケーションをとり、しばらくしてその同修は解放されました。
私は北京から帰ってきて、留置場に拘禁されました。市の国保の隊長は私に「一つ、法輪功を修煉するか、二つ、法輪功が反動組織であるかどうか、三つ、法輪功は『邪教』であるかどうか」と三つの質問をしました。私は「一つ、永遠に修煉し続けます、二つ、違います、三つ、違います」と答えました。隊長は「あなたに懲役3年を言い渡し、私があなたのために1年減刑します」と言いました。私は「それはありえません!」と言いました。
監房に戻ると、牢名主は「あなたは絶食すべきだ!」と言いました。
私が5回目に留置場に拘禁された後、担当の留置場の警官、牢名主と受刑者に真相を伝えました。担当の留置場の警官には心臓病があり、その後その警官は私に『轉法輪』を読んだと教えてくれました。牢名主も私を助けてくれ、ある者はさらに友人になり、出てきた後、さらに私に会って仕事を手伝ってくれました。
私は絶食をして2日目の朝吐血し、さらに黒緑色の多くのものを吐き出しました。牢名主は慌てて「○○さんが血を吐いた!」と叫びました。留置場の医者、所長、留置場の警官が群れになって室内に入り、ちょうどその時私の頭の上に天安門で殴られた傷がまだ残っており、私を公安病院へ送りました。
偶然にも、この病院はその時私たちの工場内に設置されていて、後方勤務の主任、CT室の主任、さらに医者などはみな私の学生でした。私を見た時、みな私を運ぶために走って来ましたが、実際私は元気でした。
私が入った病室は、青年男性が1人私のベッドのそばで3、4日立っており、人が多すぎて注意を払っていなかったので、最後に彼は私に「先生、私のことがわかりますか?」と聞きました。彼が名前を言ったので、私はやっと私の学生であることを思い出しました。その学生は授業の時よくけんかをしており、現在やくざの幹部のお供でした。そのやくざの幹部は麻薬常習者で、公安病院で治療しており、その学生はその幹部の走り使いのために来ていました。その学生は「先生、話をするのは久しぶりですね。何か先生のお役に立てることはありますか?」と言いました。私はいろいろなことが頭をよぎり「大丈夫です、ありがとう!!」と言いました。私は自分の学生が本当にしっかりと勉強することを希望しました。
その後公安病院に来た大法弟子が多く、一つの大きな部屋に集められ、病院の警備隊によって監視されていました。私はかつて警備隊に授業をしたことがあり、警備隊のすべて、隊長からボイラー担当まですべて私の学生でした。入院しているすべての大法弟子はすべての行動が自由で、見舞いに来る人が訪れ、物を送ったり、お湯を沸かすなど、みな許可されました。
ある日の午前中、市の「610弁公室」の幹部が来て、両手を後ろに回して、邪悪な顔つきをし、口汚い無礼な言葉を言いました。幹部の後ろに一人の男性の青年が付いていました。私が見てみるとこれは私が大学で教えた学生ではないでしょうか? 私は彼の名前を呼ぶと、彼は振り向いてすぐに近づいてきて、「先生ですよね!」と言いました。私は「私をどこに送りたいのですか?」と言いました。その青年は「先生心配しないでください、私は必ず先生を連れだします」と言いました。
56日後、いわゆる「保証書」も何も書かずに、私は家に帰りました。その後もこの学生が何か悪いことをしたというようなことは聞いたことがありませんでした。
四、道を踏み違えたがまともな道に立ち返った公安局長
5回目に連行され、私は絶食して12日目に家に帰りました。6回目に連行されたのは法輪功が迫害されている内容を差し込み放送した事件に私を引きずり込んだために、私は2年以上住居を追われ、2003年末、私は北京で連行されて戻ってきました。当時安全局の車が私の家の階下に半年以上留まり、警察が私の家の反対側の家に住み、私の家には盗聴器が設置され、さらに私を捕まえると5万元の懸賞があると聞き、さらに私の娘(同修)と修煉していない夫も捕まり、大学に行っていた息子が家に帰るように命じられました。
北京に行って私を連行して戻ってきた警察署長のQは師父が部隊にいた時の同僚でした。Qは以前は公安局の副局長でした。Qは積極的に迫害に加担し、大法の迫害を利用して上に登ろうとしました。投票の結果、八つの分局長の昇進の機会にQはすべて落選しました。Qは上に上がれなかっただけでなく、市の国保に移され副隊長になりました。
私は師父に「Qがもし師父と縁があるならば、Qに少し良いことをさせてあげてください」とお願いしました。北京警察署で私を取り調べた時私は何も言わず、私は「私のことはどこで解決をつけるのですか?」とQに聞きました。Qは「もちろん家で解決します」と言いました。Qは切符を取り出し「切符はもうちゃんと買ってあり、急いで電車に乗らなければなりません」と言いました。北京警察署は仕方なく私を解放しました。私のアルバイト先は賃貸オフィスビルでした。オフィスビルのマネージャーは私たちを車で駅まで送ってくれ、マネージャーは「このおねえさんは素晴らしい!」と言い続けました。なぜなら私はいつも法の基準に基づいて行動し、仕事をしたからでした。戻った後案件を担当する警官はみな「北京の人々はみなあなたが素晴らしいと言っていました」と言いました。
家に戻る途中、私はQに「あなたの戦友はあなたがしていることを知っているのですか?」と尋ねました。Qは「知っています、あなたたち法輪功の人がみな書きました」と言いました。私は「あなたは井戸に落ちた人に石を投げこんでいるようなものではありませんか? あなたはどのようにあなたの戦友と向き合うのですか?」と言いました。Qはため息をつき、何も言いませんでした。
私は「私はあなたに物語を話しましょう、私自身のことです」と言いました。私は「私は1996年から1998年の卒業生で、文化大革命の時私は15歳でした。私たちの学校の先生は関敏という名前でつかまって批判され、教壇で吊し上げをくらい、大きく腰を曲げさせられ、先生が批判されているのを見るのを私は我慢できませんでしたが、私の同級生のある男子生徒が教壇に上がって頭を押し、戻ってから『関敏は頭いっぱいに冷や汗をかいている』と言い、私はすぐにこの男性の同級生を叱り、その同級生が二度とこのようなことをするのを許しませんでした」と言いました。
関先生は素晴らしい先生で、私が通学するのは関先生と同じ道でした。春は山上の雪解け水が流れおちてきて、道が川のようになりました。私たちは通り抜けることができず、関先生は自分の自転車を歩道に置き、自分の自転車を踏ませて私たちを渡らせました。私は18歳で卒業し、問題がある職場に指導工作として短期間派遣される小グループに参加し、ちょうど関先生の故郷へ行きました。当時関先生は自宅で療養しており、私は当日の晩に関先生に会いに行き、関先生を慰め、関先生は涙を流しました。教壇で先生の頭を抑えたあの男性の私の同級生は40歳にならずに脳梗塞で寝たきりになりました。
またしばらく経ち、私は再び関先生の所在地に配属されました。またしばらく経ち関先生は名誉を回復し、先生にならずに、教育委員会の委員長に就任しました。またしばらく経ち、私は結婚しました。私の夫は今(訳注:2019年11月)の街で軍人をしており、私たちは離れて暮らしており、関先生が知ると、夫の所在地を私に尋ね、関先生の以前の中学と高校の同級生がこの市の市長をしており、さらに教育を担当している、と言いました。関先生は私のために長い間連絡を取っていなかった市長の同級生に手紙を書き、さらに自分の印を押し、私に郵送させました。1カ月後、私はこの街に転勤しました。私は農村の教師で、市内に転勤することは、1974年では大変でした!(訳注:当時は農村から市内に移ることはできなかった)先生は8人の子供がおり、先生は一人も気にかけず、さらに子供の一人が病気になりましたが、先生はそれでも入院させませんでした。私が15歳でまだ子供だった時、先生のために公正な話をし、私のささやかな善行は、このような善の報い(訳注:関先生が市長あてに手紙を書いてくれたこと)を受けました。
Qは感動し、少し深く考え込み「私に100パーセントの力があれば、私はあなたのために必ず120パーセントの力を使います」と言いました。その後Qは二度と法輪功の弟子への迫害に加担しなかったと聞き、さらにいつもQに会うと、Qはいつも問題を解決するのを手伝ってくれました。その後Qは病気を装って仕事に行かなくなりました。
その日私たちが電車の駅で降りた時、警察が強大な敵に向かっているかのように「北京から法輪功の一人の『重要人物』が来た」と言い、何百人もの人が私を迎えました。私は寛大に局長と握手をし、それから国保の隊長の前に歩いていき隊長と握手をしました。局長と隊長は私を市局の取調室に拘禁しました。取り巻き連中が4日間尋問し、最後に記録を読み、みんな私を含めてみな笑い、どの記録も局長と隊長にとって役に立ちませんでした。そこで私を留置場に送りました。
留置場では、私は女性監房に拘禁され、夫は男性監房に拘禁され、娘は警察署の鉄の檻に拘禁されました。私は師父に「師父、弟子は間違っておらず、行なったことはすべて大法弟子が行なうべきことで、私はこのような迫害を受けるべきではありません」と申し上げました。その後は心は落ち着き、リラックスしました。
半月後、Qが私を迎えに来てくれました。私がいる地区の警察署は私を裁判にかけたいと思っていましたが、結局Qたちの車が来て、ちょうど私は車に乗って出て行きました。息子も無事で、授業のために学校に戻り、娘も家に帰りました。夫だけがまだ留置場にいました。国保は夫を裁判にかけたがっていました。いわゆる「三長会議(訳注:裁判長、検察庁長官、公安局長の会議)」で、国保の隊長は私の夫の名前を読み上げ、隅に座っていた一人の人が「この人は有罪になるほどではありません」と言いました。そして夫の資料を取り出しました。
夫は留置場で40日以上拘禁されてから家に戻りました。当時誰も法輪功のために声をあげる勇気のある人はいませんでした。その後、市の国保の隊長が「誰を探しているのですか?」と私に聞いてきました。「この人はどうやら検察庁の人のようですが、以前彼に会ったことがなく、その後もあっていません」と言い、隊長がわざわざこの人を探しましたが、見つかりませんでした。隊長は「それは誰か?」と思ったようでした。私はもともと誰も探してはいませんでした。
佛法が無辺であると言うことを誰が止められるでしょうか?
2004年、家族全員で別の場所に引っ越しました。警察であろうと、あるいは誰であろうと、私はその人たちを敵だと思ったことはありません。困難な歳月に出会った素晴らしい人々は、ある人は私が真相をはっきりと伝えるのを聞いた後に救われ、ある人はまだその人たちに真相を伝える機会がありません。この文章を書き、故郷の同修が私がまだ真相伝えていない人たちにはっきり大法の真相を伝える機会を持てることを希望し、このすばらしい人たちが大法の救い済度を得ることを希望します!
最後に師父の詩を以って同修の皆さんと励まし合いたいと思います「私たちは異なる民族の末裔だけれども 神は、私たちを大法弟子と呼ぶ 衆生を救うことは、私たちの生命の目的」[1]
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「伝達」
(明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)