競争心の裏に嫉妬心あり
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2021年5月21日】明慧ネットは「注目度」を新しく追加しました。最初はまだ心を動かされることなく、ただちらっと見るだけでしたが、その後、徐々に熱心になり、アクセス数に関心を持つだけでなく、さらに比べて、これは少しおかしいと気づき、しかし具体的に何がおかしいのかには気づかず、ただ熱心に関心を持つだけでした。

 それから、私はアクセス数の多い文章と少ない文章を比べてみて、アクセス数の少ない文章は多い文章よりうまく書かれており、読者(同修)の共鳴(個人の主観的な感銘)を引き起こすことができることに気づき、このようにアクセス数が少ないのに読者の共鳴を引き起こすことができる文章に対して少し不公平を訴えました。どうしてこのようになるのでしょうか? やはり文章に良いタイトルを付けたため、人が見たいという欲求を喚起することができるのではないでしょうか? この時まで私はまだ自分の何が問題かに気づかず、自分の考えがすべてどこに向かって使われているのかを考えていませんでした。心も使い方が不正でした。もちろんさらに「内に向けて自分を探すこともできず、『内容の良い文章は注目度がかえって低く、これは読者の素質と状態の真実の体現である』という客観的な環境が見えていない」ということにも気が付きませんでした。これはとても考えさせられることではないでしょうか?

 表面から見れば、そこに私の文章はなく、私はただの読者(同修)で、私とは関係がなく、自分の心の中に少しだけ自分の見方があり、また他の人には話はしておらず、何の影響をももたらしておらず、これだけでした。しかし、この間師父の説法を読んで、「大法修煉において執着心を生み出すようなことは決してありません。執着心を取り除くしかありません」[1]という一行の文字が突然私の目の中に飛び込んできました。

 私は心をやや動かし、改めて自分のこの心をじっくり見始めました。私が明慧に投稿し始めた時、ただ発表したかどうかだけに関心を持っていました(心はやはり落ち着いている普通の関心だった)。その後、発表される編数の増加に伴い、「発表されたかどうか」ということから『明慧週刊』に掲載されているかどうかに変わり、『明慧週刊』に選ばれると広く伝わり(インターネットを見ない同修でも見ることができる)、さらにオーディオデータにすることができたからでした。以前にはなかった執着心を持つようになり、それが少しずつ大きくなり、名を求める心も現れました。しかし執着心はやはりとても不明瞭でした。

 自分の文章が『明慧週刊』に掲載された時、この心は少し膨らみ、また少し自己満足をして有頂天になり、すでにとても危険でした。幸運なことに、自分はその時まだ理性的にこの危険を意識することができ、直ちに調整しました。またすべて師父が行っておられ、師父の功労、師父の加持、援助と啓発であり、また明慧同修の苦労と努力であると知っていました。私は「他人の手柄を横取りして自分のものとして占有しない、しっかり覚え、永遠に謙虚であるように」と自分に警告しました。同時に、内に向けて探すすばらしさをも深く体得することができ、内に向けて探すことは本当に宝物でした!

 私は今回の事がこのように過ぎ去ったと勘違いしていましたが、さまざまな表面的な執着の裏にまだ問題があるということに思い付きませんでした。私が初めて「注目度」を見た時、私ははっきり見えておらず、ずっと「アクセス数」だと思っており、頭の中に「私のあの文章はもし今だったら『アクセス数』がどのくらいあるか分からない」という一念が出てきました。さっと過ぎ去ったため、私は見逃してしまい、私の警戒を引き起こしませんでした。実は私が終始演じたのはすべて当事者であり、最初は心を動かさず――心を動かし――熱心になり――関心を持ち――比較し――不平公を訴え――負けを認めず――競争心(名を求める心)―嫉妬心でした。この嫉妬心は本当に悪賢いのです。

 師父は「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[2]と説かれました。皆さんもお分かりのように、修煉者にとって、嫉妬心を取り除くことはどんなに重要なことでしょうか!

 伝統文化の中に「君子は他人の良いところに着目してそれを成しとげさせてあげる」というのがありますが、しかし現在の中国は相手とは逆の方法で事を行うのです。人々の頭の中には「他人の良いところに着目してそれを成しとげさせてあげる」概念がまったくありません。つまる所、この嫉妬心と闘争心がもたらしたのです。人々の嫉妬心は普遍的で強烈です。多くの悪い事もすべてこの嫉妬心によって引き起こされたのです。

 大法弟子は常人社会の中で修煉し、このような社会環境の中で、人と人の間の付き合いの中で、とりわけこの嫉妬心に警戒すべきです。常に探して、いったん発見したら、決して甘やかして譲歩してはならず、徹底的に根絶し、決して嫉妬心に私達の修煉を台無しにさせてはいけません。

 個人の認識ですので、法と合わないところがあれば、同修のみなさんの慈悲深いご指摘をお願いします。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ニュージーランド法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/20/421044.html)
 
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