過ちを認めようとしないのは、党文化の現れです
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年7月26日】修煉者として、私たちはよく「人に善良であること」を口にし、あらゆることにおいて「常人と争いません」と言っています。しかし、現実の生活の中では、面子を気にして、自分の過ちを直接認めようとしない時が多いようです。多くの場合「私はうまくやれなかった」、「私は、まだ不足がある」、「私の言い方は優しくなかった」など、党文化が用いる言葉を使って自分を慰め、言い訳をしてしまいます。

 例を挙げると、最近、私は子供を教育しているときに子供に反抗され、とても悲しい思いをしました。口論をしたわけでも、親としての立場で子供を抑え込むようなことをしたわけでもありません。自分の言い方が優しくないのか、口調が厳しかったのではないかと考えはしましたが、自分の何の執着心に起因したものなのか、自分のどこに間違いがあったのかと、真剣に考えてはいませんでした。

 個人的には、過ちを認めたくないということは、内に目を向けたくないということだと思います。まだ、人間の考え方や理論、情に基づいて現実生活の中の是非を判断しているのです。常人レベルの理であれば、自分の過ちを認めようとする必要があるのでしょうか?  ただ自分は「十分にうまくやれなかった」だけで「何が間違っているというのか? 何も間違っていない)」と思っているのかもしれません。また、面子を重視し、過ちを認めるのが恥ずかしいと感じたり、顔に泥を塗られたような思いになることがあると思いますが、これは党文化に毒されている現れの一つです。「そこまでよくできていない」、「不十分だった」、「まだ足りていないところがある」などは典型的な党文化の言い回しです。毎年、共産党が開催する各レベルのいわゆる「民主生活会」で、党員幹部が書く自己評価の文章でも、どこが間違っていたのか、明確なことはほとんど話しません。全篇にわたって「十分にうまくやれなかった」、「学びが足りなかった」、「基準が高くなかった」などの言葉でいっぱいです。

 師父は私たちにこう教えられています。

 「修煉する人

 自らの過ちを探し

 各種の人心、取り去ること多し

 大小の関、落さんと想ふべからず

 正しきは彼

 過ちは私

 何を争ふものか」(『洪吟三』「誰が是 誰が非」)

 修煉者として、法を師とし、あらゆる事を法に照らし合わせ、常に自分の過ちを見つけ、さまざまな人心を掘り起こすべきだと思います。過ちを認める勇気を持つことは、これらの心を自発的に曝露することです。もし、争う心が生じて他人の過ちを指摘しようとするなら、それは人間レベルの利益を守っているだけで、修煉の向上にはなりません。師父がおっしゃられたように、心を修めることこそが、真の修煉なのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/29/479035.html)
 
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