自分を静めることは内に向けて自分を修めることでもある
文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年9月6日】今まで、私は発正念の前の5分間においてまず自分を静めることは、単に発正念の際、もっと集中ができ、邪悪を根絶するのにもっと大きな威力を発揮するためだと思いました。
半月前のある日、私は自分の修煉次元で一つの理を悟りました。「自分を静めることは内に向けて自分を修めることでもあります」両手を結印し自分を静め、「意念の中で自分の考えの中の良くない考え、業力と良くない観念または外来の妨害を根絶します」(『導航』「二〇〇一年カナダ法会での説法」)を心の中で黙読する過程で思ったのですが、これらのよくない考え、業力及びよくない観念または外来の妨害の全ては自分に形成された後天的な人心、執着と観念ではありませんか? 両手を結印し、これらのよくない考え、業力及びよくない観念または外来の妨害の全てを根絶すると同時に、現時点できちんと認識できている或いはまだ認識できていない人心や執着、そして外来の妨害も一緒に根絶できたのではないでしょうか? これはまた内に向けて自分を修めることでもありませんか?
「自分を静めることは内に向けて自分を修めることでもある」という理が分かってから、私は毎日の時間の按配を少し調整し、早朝6時の全世界の大法弟子の発正念後、両手を結印し、50分間かけて自分を静め、その後7時の正時の発正念をすることにしました。
毎朝50分の長時間にわたって、自分の空間場をきれいにし、半月ほど続けた結果、今の私は雑念が少なく、思想はいつも清らかで、時には体が浮くような軽さを感じ、表現できないほどの玄妙さを実感しました。