明慧法会|すべては師父がおっしゃった通りになる(一)
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邪悪な黒巣の中、文章で真相を伝え

 

文/中国の大法弟子 正非

 【明慧日本2013年11月22日】師父は次のように説かれました。「誰が何を担当するか、それなりの理由があります」[1]。今私はやっと分かりました。私は学校を出て軍隊に入り、そこで10数年間報道の仕事をしました。除隊してからも編集の仕事を十数年間やってきました。実はこれらすべては、法を正す師を手伝うための準備でした。

 特に2000年末から2003年2月まで、私は邪悪な黒巣の中で、邪悪が許可せざるを得ないような上告文、家への便り、思想報告書などの形を利用して、知恵をもって邪悪に抵抗し、大法の真相を広く伝えました。大法弟子は自分が、師が法を正すことを手伝う大法徒であることを意識して、一思一念を法に基づいて行動すれば、師父の法身からのご加護を得られ、すべての関門を突破することができ、すべての障碍を排除することができ、それによって、大法の神秘さ、師父の偉大さ、慈悲深さを世間に知らせることができます。師尊がおっしゃったように「これほど大きな法があり、正念の中で大法が皆さんとともにあり、これは絶大な保障です」[2]

 以下のいくつかの内容をお話して、同修達と分かち合いたいと思います。間違いがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 一、屈強な若者の突然死

 あれは2000年11月の事でした。私はいわゆる「不法集会」によって逮捕され、某市の第三留置場に拘禁されました。ある日午前10時過ぎに、2人の警官が手錠をかけ、重い足かせをつけた若者を引っ張りだして来ました。警官は彼の手錠をはずし、足かせははずさないで、第5列の真ん中に配置しましたが、そこは、私から2人離れていました。この屈強な若者は、38歳で未婚でした。ちょうど職場を離れて、法を実証するために北京に行き、法を正さなければ帰らない(当時、多くの大法弟子はこのように思っていた)と決心しました。北京に行く前に、彼はたくさんの真相資料をコピーして公園の近くで通行人に配った結果、警官に捕まえられました。彼はしたたか殴られ、暴行されましたが、自分の姓名、住所をいっさい言わず、留置場に送られて来ました。

 1人の同修が彼のそばに来て小さな声で「何かお手伝いできことがありますか」と聞きました。彼はその同修を見て、「有難うございます。師と法があれば、私は何もいりません」と答えました。迫害の初期に、このような法と師を信じる言葉を発することができたのは実にたいしたもので、みんな彼に多くの敬服のまなざしを投げかけました。

 夜になると、当番の警官はこの屈強な若者を最も邪悪な第6班に配置しました。私の隣の監房でした。第6班の班長(監房のボス)は点数を多く稼いで、早くここから出たいため、多くの受刑者をひどく殴り、その中には大法弟子もいました。彼の下に3人の手先がいて、すべて彼の助手でした。中国共産党の留置場、労働教養所の大部分はこれらの人間のくずを利用して受刑者を管理させています。どのぐらい暗黒なのか想像に難くありません。その日も夜になると、第6班の班長はドアを閉じて、新しく入って来た受刑者の尋問を始めました。まず、その若者に腰を下ろさせ、おしりを上げさせ、両手を後ろに伸ばさせ、飛行機の姿勢(1種の懲罰)をさせて、それから班長は「名前は? 家はどこか?」と聞きました。若者はいっさい返事をしませんでした。すると3人の手先が殴ったり蹴ったりして乱暴を働きました。しばらく休んでからまた聞きました。同じく答えはありませんでした。第6班の班長はぶつぶつと「こんなに頑固なやつをこれまで見たことがない! こいつは本当に強いな。今日は彼に血を見せてやろう。まだ屈しないか見ていろ?」と言い、手先たちはベッドの下から棒を取り出して、若者の足と2本の肋骨を殴って折ってしまいました。屈強な若者の悲鳴はひどく悲惨で、すぐ気絶して、診察室に運ばれました。その若者は一晩苦しんで叫びました。私もその日の夜は一睡もできませんでした。

 翌日、第6班を担当する警官が出勤して、第6班の班長を外まで呼び出しました。ちょうど私のドアの前でした。「あの法輪功は白状したか?」と聞くと、「してない。あいつは強い。俺たちはあいつの脚と肋骨2本をへし折った」と答えたが、警官はまったく気にせず、「今度、やり方に気をつけろ。しかし本当におとなしくしなければ、手を滑らして打ち殺しても仕方がない。われわれの所には毎年死亡枠が2つある。今年はまだ使っていない」と言いました。第6班の班長は心が通じ合ったかのようにうなずきました。

 ある日の夜、屈強な若者は「管教室」に連れて行かれました。隣の同修の話では「管教室」の方から、パン、パンと棒が人の体を叩く音が聞こえて、最初はまた叫び声が聞こえていましたが、その後、まったく声がなくなったそうです。

 この数日間、若者は苦しめられてひっきりなしに叫び呻きました。夕飯がベッドの前に置かれても触っていませんでした。医者は「あなたはすでに4日間も物を食べていないから、これ以上食べなければ、『灌食』するしかない。よく考えなさい」と言いました。夜9時過ぎ、医者は第6班の3~4人を呼び出し、灌食を手伝わせました。医者がいないうちに、3人の手先と第6班の班長は多くの塩を加え、3人が押さえて、医者が口の中に入れるのを協力しました。若者の「しょっぱい! おまえ達の悪霊は死んでしまえ!」という叫び声だけが聞こえ、その後、だんだん声がなくなり、ただひたすら空咳だけが聞こえてきました。医者は「誰がやったのか? 私を陥れるつもりか」と怒りましたが、第6班の班長が急いで医者に何か耳打ちすると、医者は黙ってしまいました。夜中になって、もう若者の空咳も聞こえなくなり、ただ人を運ぶ足音だけが聞こえました。先ほどまで生きていた人間がこのようにして世を去って行きました。

 驚いたことに、2日間で人を迫害して死亡させました! 恐ろしいことです! 共産党統治下の黒巣では人間を人間扱いせず、アリを踏み潰すよりも簡単でした。泣きたくても涙も出ませんでした。ただ胸が苦しく感じました。留置所は緊急会議を開き、対策を検討しました。しかし、第6班の班長はすでに期限になって釈放され、3人の手先は別の所に移されたそうです。事情を知っている人たちは口止めされ、彼らも自分の利益と自身の安全のため、堅く口を閉ざして何も言おうとしませんでした。留置所ではすべてが元に戻り、あの屈強な若者は存在すらしていなかったようになりました。

 若者の悲惨な死亡例を、私が目の当たりにしたのは偶然ではなく、私はこのことを暴き出し、確かな根拠を持って、彼の家族のために正義を取り戻さなければならないと思いました。しかし、この邪悪の巣窟のなかで、24時間体制で警備され、ペンと紙すらありません! どう書けばいいでしょうか? 私と一緒にいた退職教師は、私の考えを見抜いて「悪人がいくら凶悪でも、彼は人を使って仕事をしなければならない。もしあなたが書く決心をしたら、私たちはあなたを手伝います」と言ってくれました。私は喜んで「ありがとうございます! 本当に天道人を殺さずです!」と言いました。

 私は警官に上告書を書きたいと申し出ました。彼はぐずぐずして態度を表明してくれませんでした。彼はあの年配の教師と関係が悪くないようで、教師の勧めを聞いて、一応認めてくれました。上告書はとても速く書き終わりました。退職教師は考えた末、その夜綿入れのズボンの中にその文章を縫いこんで、そのズボンを身につけました。彼は嬉しそうにズボンを叩いて、「安心しなさい、これで万に一つの失敗もない。これは私達の死者に対する慰めです、あの屈強な若者は安らかにこの世を去っていけるでしょう!」と言いました。

 その後、私はすぐに留置場を出ることが出来ました。若者の冤罪がどう処理されたのか詳しいことは知りません。聞くところによると、その後、留置場はかなり長い時間をかけて立て直され、幹部と警官は随分入れ替えられました。私は「善悪には報いあり」の天理から、この悪人たちは逃れることはできないと思いました。

 二、国内外を震撼させる「3.14」事例

 2001年の旧正月前に、私は不法に2年の労働教養を科され、吉林市歓喜峰労働教養所に入れられました。そこの法輪功修煉者は200人にまで激増し、当局は5つの大隊に割り当てられた法輪功修煉者を一カ所に集め、法輪功修煉者だけを拘禁する大隊を設け、その下に「普通」、「寛管」、「厳管」の3つの中隊を設置しました。普通管理中隊は2階に、厳管中隊は3階に、緩管中隊は4階にありました。3月10日、3階の1人の修煉者が当番の警官に殴られ、鼻や口から血を流し、片目が開かなくなりました。さらに3日間の監禁処罰を科されました。厳管中隊の修煉者は協議して朝の断食を決め、2階も4階も一緒に行動することになりました。

 4日目、太った所長が3つの中隊から6人の代表を出して会議室で会議をすると知らせてきました。私は30代の同修と厳管中隊の代表として、3つの要求を出しました。1、すぐに監禁された修煉者を釈放すること。2、暴行した警官は謝罪して、二度と暴力をしないことを保証すること。3、別の形の体罰、板に座らせるなどを廃止すること。また他の代表は毎日1時間の自由時間が欲しい、また2時間の煉功時間が欲しいという要求を出しました。修煉者の発言が終わらないうちに、太った所長は机を叩いて、「ここは独裁機関だ! 会議終了!」と怒鳴りました。

 5日目、つまり3月15日午前9時過ぎ、留置所のすべての男性警官と男性従業員が警棒、狼牙棒(訳者注:棘上の突起物が数多く付いた棒状の武器)、また鉛の砂が入った鉛砂棒を持って(このような鉛砂棒は最も陰険悪辣で、内傷があっても外傷がない。海外ではとっくに使用禁止となっているが、中国では今なお使用されている)、30~40人が、殺人鬼のように2階の普通管理中隊に突き進みました。彼らは手に凶器を持ち、修煉者に「ご飯を食べるか? 食べない人は出てきなさい」と言いました。10人ぐらいの修煉者が立ち上がりました。彼らは修煉者を管教室に引っ張っていき、各種の刑具をいっぺんに使い、拳骨で殴ったり足で蹴ったりして、暴行しました。何人かの人は数日間も自分で服が着られないほど暴行されました。警官らはまた4階に突き進み、半数以上の人はおなかが空いていないと言いました。それでも暴行を加えられました。狂気の暴行でした。

 3階はいわゆる「厳管チーム」です。すべての法輪功修煉者は2階と4階の殴り声、叫び声を聞き、一致して大声で「人を殴るのは犯罪です! 人を殴るのはファシストの行為だ! あなた達は法を知りながら法を犯している、罪はさらに大きい! あなたたちは頭に国章を乗せて、ファシストの罪悪行為をしている!」と叫びました、一部の人は手をつないで、ジャンプして音を立てて抗議しました。警官が3階まで来るだろうと予想して、私は急いで皆に「今朝の明け方、私は夢の中で空いっぱい色のきれいな雲を見ました。一匹の長さ2メートルの大きな鯉の首尾がきらきらと光って、うなる音を立てて、西北の方向に飛んでいきました」と言いました。同修は「これは言うまでもなく、明らかに鯉が竜門を越えることだ。跳び越したら、あなたは神で、跳び越せなければ、あなたは1匹の小さな鯉だ。師父は私たちにこの難関を立派に乗り越えて欲しいと教えてくださっている」と言いました。同修達は実際の行動で大法を守ることを決心しました。

 警官は3階に突進して来ました。先頭に立っている隊長は足でドアを蹴飛ばして、「お前らは叫んでいたな! どうして叫ばなくなったのか?」と言い、指導員も上がってきて「むだ話をするな。食べない奴は立ちなさい!」と言ったら、全員が整然と立ち上がりました。隊長はカンカンになり「お前らは勇気があるね。さすが厳管中隊だ」と言い、2人の警官に、1人の大法弟子を引っ張るように指示して、隣の管教室に引っ張りこみ、1人の警官が押し倒して、もう1人の警官が電気ショックを加えて、暴行しました。まるで気が狂ったように打ち、許しを願っても止めませんでした。その修煉者がショックを起こし、意識を失うまで殴り続けました。

 27歳の修煉者(舒蘭県の牛俊会さん)は、最初声を出さなかったのですが、ずっと暴行されて、2本の肋骨が折れるまで暴行されました。最後に、彼は弱い声で「私はもう駄目だ。私は死んでしまう」と声が聞こえました。しかし、警官はまるで制御できなくなったように、むやみに暴行を加えました。最初、彼はまだ頭を抱えていましたが、その後はもう両手を放し、気絶してしまいました。警官が狼牙棒を使って、彼の左頭部を打つと、凹んだ穴が開いて血が噴き出ました。警官が私たちの部屋に来て、二巻きのトイレットペーパーを受け取り、噴き出している穴を塞ぎました。彼は弱い脈しかありませんでしたが、しかし、緊急措置をとっても間に合わないだろうと思いました。しかし、やはり救急車で運ばれていきました。

 厳管チームだけで、ショックを起こしたり、気絶した人は8人いました。市の第四病院(労働教養所指定病院)に運ばれて、救急措置を受けたのは3人で、大隊全体の負傷者は65人、暴行を受けた人は105人でした。その中で救急措置を取っても助からなかった人は1人でした。もう1人は鉛砂棒で打たれ、肺葉が全部潰れました(市運輸隊の侯占海さん)、その後、彼は高熱を出し、地方に送られても依然として高熱は下がらず、X線で検査したら、両肺が全部潰され、すでに腐っており、いつでも死亡する危険性があるため、現地の司法局は車を出してその日の夜に彼を自宅に送りましたが、3日後に死亡しました。

 労働働教養所内外の大法弟子が密接に協力した結果、この情報はとても早く伝えられ、外部の大法弟子が全力で救援し、迫害を暴き出して、最も短い時間で「3.14」の悲惨な事件を海外の同修たちに知らせ、それから国内外のメディアに伝えました。人民代表大会や政治協商会議にこの情況を陳情する人もいて、被害者家族を組織して会見を求めたり、釈放を求めたりする人もいました。「労働教養所で人が殺された! 大勢の人が負傷した!」、「病院に多くの人を送り込んだ」、「これが警察か? 国民党の兵士もこんな酷いことはしなかった。悲惨すぎる」。毎日夜明け前から、タクシーや、歩いて(教養所周囲の数百メートルはバスが走行しない)、この近郊の労働教養所に情報を収集しに来る人がいました。労働教養所の高い壁の外、有刺鉄線の網の外にはたくさんの人が立っていました。子供を抱っこして、自分の身内を心配して泣いている若い女性もいました。

 圧力の下で、省の人民代表大会は調査団を作り、調査に来ました。労働教養所は当日厳戒態勢を敷き、門は閉められ、すべての人が食、住を全て中で済ませ、外部の者をいっさい受け付けませんでした。太った所長は忙しくなり、大変な状況に追い込まれました。彼は公私の関係を使って、直属の上司に現在の困窮から抜け出せるよう助けを求めました。彼の上司も「65人の重傷者を分散させて、それぞれ省内の東南地方の四つの労働教養所に移送して、省の人民代表大会調査団の調査に対処する」と、とても早く解決案を出しました。

 悲惨な事件が発生して5日目の午前9時、緊急集合があり、「大型バスに乗ってすぐ出発する。行き先は聞かないこと! 誰がいつ降りるかは、その時知らせる。動けない者は担架で乗車する。歩けない者は誰かが背負って乗車する。動きにくい人は誰かに支えられて乗車する。いくら辛くても、数時間辛抱しなさい。大きい声で喋ったり叫んだりしてはいけない。息さえしていれば、行かなければならない。これは命令だ」と知らされました。

 師尊はこのように説かれました。「大法弟子として現在行なっている一切のことはみな、大法と弟子たちへの迫害を抑制しているのです。真相をしっかり伝えることは、邪悪に対する暴露であると同時に、邪悪を抑制し、迫害を弱めることです。邪悪を暴露すると同時に、民衆の頭の中にある邪悪による虚言と虚像の害毒を取り除き、人を救っていることなのです。これは最大の慈悲です」[3]。このために、私はすべてを尽くして努力し、すべての魔難を排除して、師父の要求通りに直ちに書き出し、迫害を暴き出しました。たとえ明慧ネットに載せられなくても(当時明慧ネットにアクセスできる人はとても少なかった)広範囲に邪悪を暴き出せなくても、この上ない貴重な資料を残さなければならないと思いました。これは師父が以前から私に按排された歴史的使命だと思いました。

 この文章を書くことは、先ほどの若者の突然死とほぼ同じで、ただ更に困難で、曲折が多かったのです。原稿は壊されて、2回も書き直しました。同修たち全員の協力を得て、板に座りながら(1種の刑罰)書いて、やっと完成したのです。

 2003年2月(旧正月の3日前)に私は労働教養所を出ました。同修から「あの『3.14』の悲惨な事件は誰が書いたのですか? きっと体験者が自ら書いたに違いありません。さもなければ、あんなに具体的に人を感動させるものは書けません。私は涙を流しながら読みました」と言われました。

 同修が「3.14」の悲惨な事件に言及すると、私はいつも感動してやみません。私をあの悲壮で残忍、また同修たちの屈服しない、金剛不動、大法を守る場面に引き戻してしまいます。その事件が人々の目に触れることができれば十分です。私の努力は無駄ではありませんでした。師父が私に与えてくださった偉大な責任に背くことはなかったのです。私の歴史的な使命も果たされつつあります。

 (続く)

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 

注:
[1] 『導航』「北米五大湖地区での説法」
[2] 『各地での説法十』「マンハッタン説法」
[3] 『精進要旨』「ごあいさつの言葉」

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2013/11/10/282296.html)
 
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