以上は個人の認識ですが、妥当でない部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
—— 真に大法の中に溶け込む
文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年12月23日】自分の修煉過程を振り返り、十数年の中でずっと精進したりしなかったりの状態で、いまだに精進し続けることがでません。なぜでしょうか? 深く自省する中で、修煉の様々な出来事が脳裏に浮かんできました。以下の三つの出来事を持って同修たちと交流したいと思います。
一つ目は、1999年7.20の中共による法輪功への迫害が始まってから、煉功場が解散になり、私は家で一人で学法や煉功をすることを余儀なくされました。その年の冬は非常に寒く、随分前から雪が降り、氷柱が一尺以上にもなりました。毎朝静功を煉る時、私はベッドの上で分厚い上着を羽織り、下半身を布団で隙間なく覆い、それでも寒くてたまりませんでした。寒さを恐れ、目が覚めてから起きるまで何度も布団の中で躊躇します。しかしある日、私はある消息を聞き、驚きました。県内の一部の大法弟子は北京に法を実証しに行って、戻ってから県内の留置場に監禁されています。私の所は辺鄙で、大雪によって消息が経たれ、同修たちと一緒に法を実証しに行くことができなかっただけでなく、自分の毎日の家での修煉状態を思うと、恥ずかしくてたまりませんでした。私は自分の修煉状態を変えようと決心しました。翌日、私は迷わずベッドから抜け出し、セーター一つで静功を煉り始めました。寒さを考えず、留置場の同修たちを思い、自分の修煉者らしくない所を思っていました。暫く座ってからは、体がそんなに震えなくなり、徐々に周辺の「寒さ」になれました。当時、修煉して1年くらい経っていた私は80分位の静功を煉ることができましたが、その日セーター一つで80分座りました。数日後、分厚く着ても以前は寒かった私は今そんなに寒く感じないので、いっそセーターも脱いでシャツ一つで試してみようと思いました。翌日、私はシャツ一枚で静功を煉りました。その数日後、私はシャツも無しで静功を煉りました。その年の冬、私は結局パンツ一枚で静功を煉り続けました。
二つ目は、数年前のある日の午後、田んぼを耕しに行く途中、体の格別な軽さを感じ、修煉前の自分の身体状況を思い出しました。立った状態から座ろうとしてもできず、座ったら立ち上がれず、ほほがこけて、お腹が膨らみ病人そのものでした。修煉後に大法が私に健康な体を与えてくれました。私はそう思いながら田んぼに向かい、今までにないさわやかさを感じました。その日の午後は、普段と同じ時間を使い、倍以上の仕上がりができただけでなく、少しも疲れを感じませんでした。
三つ目は、一時、私は毎日発正念の時に心が静まらず、焦りを感じていました。どうすれば静まるのでしょうか? しっかり発正念をしないと邪悪を解体する目的を達成できないのに、なぜ心が静まらないでしょうか? ある日、私はずっと「静まる、静まる…」と考え、いつの間にか心が静まり、その後、体がエネルギー場に包まれた感覚を覚えました。発正念の後、頭がすっきりして、空間場は非常に穏やかな感じでした。
上述した出来事は簡単で些細なことですが、当時はただ神秘的で素晴らしい体験だったという認識しかなく、どうしてそのような状態が現れたかを考えたことがありませんでした。最近これらの出来事を大法の角度や当時の自分の環境や心境、そして個人の修煉状態の変化から考えてみると、それは法の現われで、法が真に修煉する過程で現れてきたのだという認識に至りました。
例えば一つ目のことですが、同修たちが北京に陳情に行ったことを聞き、翌日から迷いなく朝のベッドから飛び出し、布団や厚着を脱ぎ、セーター一つでも寒さを感じなくなりました。その前の寒いという思いは恐らく自分がただ「形式」的に煉功していたのだと思います。その後同修たちに刺激され、そのとき自分が思ったのは法であって、寒さなどを考えず、真に自分が法に溶け込んだのだと思います。師父がおっしゃったように、「物質と精神は同一である」(『轉法輪』)ということです。 頭にあるのが人間の寒さであれば、寒くてたまりませんが、法が頭に入っていれば、寒さという概念がなく、寒さも感じなくなります。精神が変われば、物質面の身体も変わります。なぜならばそれらは同じものだからです。これが法の超常であり、言わば「一念の差で、天地の開きが出る」ということだと思います。
二つ目のことですが、農作業をしに行く途中、突然体の良い状態を感じ、修煉前の病弱状態と比較し、真に大法の偉大さを実感しました。その日の労働量は普段の倍以上でしたが、少しも疲れを感じませんでした。その時自分が法に溶け込んでいたのではありませんか? その時思っていたのは法の偉大さであり、一切の執着を忘れた時、法が現れ、労働量が増えても疲れを感じなかったのです。
三つ目ですが、発正念のとき入静できないことは、師父が法を正し、宇宙が更新され、旧勢力が妨害し、大法弟子は師に手伝うと考えたとき、自分が法に溶け込み、現れてきたのは心が静まった時の正念の場です。発正念後に感じたのは、空間場の穏やかさと頭脳の明晰さでした。
私は真に法理に沿ってこれらのことを認識した時、真に大法に溶け込んで初めて大法の中で自分を着実に修める事ができ、自分を正して初めて真善忍の法理が自分の考えの一つ、念の一つに溶け込んでいくことができ、真偽、善悪、良し悪しを識別し、名利情を弁別し、修煉の中の関や難をうまく処理し、如何に衆生を救うべきかが分かってきました。それがきちんと実行できれば、大法の素晴らしさを実感でき、精進して向上し、修煉の中で「情熱」が湧いてくると思います。
再び自分の修煉過程の中での「冷めていた」時期の状態を振り返ってみれば、一部の同修の言うように、表面的で、形式的な修煉に拘り、表面上の修煉者らしさを追求し、真に法の中で自分を変えないため、大法の素晴らしさが見えず、修煉状態も冷淡に表れます。実際それは法の中で実修していないことを意味しているので、この時師父の教え通りに内に向けて探し、自分の人心や執着、各種障害や不足を見つけ出し、法の中で自分を着実に修めるしかありません。
また、自分の修煉状態の不安定な根底には、真に法理において向上していないということがあります。例えば、他人は病気が治った、或いは自分が病から立ち直った時には精進し、思想が各種の人心に惑わされる時には常人のことに再び執着し始めたりします。よく学法し、法理をきちんと理解して初めて法の要求に自ら従い、修煉する中で様々な障害を突破することができます。