文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年4月9日】私達は普段の生活の中で何かあった時、自分は修煉者だという自覚を持って、自分の一つの考え、一つの念でも法に基づいて行わなければなりません。もし身の回りで、同修が自分の足りないところを指摘してくれたり、注意をしてくれたら、それはとてもありがたいことです。数日前、私はこのようなことに出会いました。
私はインターネットで買い物をしましたが、すこし問題があったので、返品することにしました。買った時におまけとしてマフラーを貰いました。色もデザインも、すべて私の好みです。お店の人は「おまけの品は返品する必要はありません」と言いましたが、私は迷いました。結局、お店の人は繰り返して私を説得しました。私は「このマフラーは自分もお気に入りだし、返品しなくてもいいのかな、自分の物にしよう」と思いました。宅急便を待つ間に、同修(同じ職場の人)から「おまけの品物も返品しないといけませんよ」と注意を受けました。私は、えっと思いました。修煉者は常人と同じように考えてはいけないことはよく分かります。私は表面的には納得した様子でいましたが、心の中では欲しくてたまりませんでした。ただ値がついていないマフラーですが、この色とデザインは手放せません。買いたいと思っても、同じ物があるはずがありません。
その時、同修のことを不満に思いました、彼女は「バカ正直で」、「融通がきかない」「細かいことにケチケチする人だ」といろいろな考えが生まれました。私は1999年から今日まで10年以上修煉しましたが、未だにこんな考えがあるなんて、情けないと思いました。目の前にある物がマフラーではなくて「黄金」なら、どうでしょうか? 欲しくなるでしょうか? 欲しくて言い訳までするでしょうか? これは常人の中にある「私欲」と「欲張りの心」です。このような習慣を知らないうちに身に着けていました。私はこれらのものはいりません。必ず否定します。そうでなければ、これらの物は自身が生きるために私の空間場に穴を開けます。ますます空間を広げていけば、私に漏れが生じてきます。そう考えて、私は黙って発正念をしました。一瞬すっきりした感じで、それらの物も壊滅しました。
このことについて、振りかえってみると、同修がタイミングよく私に注意をしてくれたことに、心から感謝します。放っておけば、気付かなかったでしょう。ごく普通のことですが、本当に自分が修めているかどうか、一つの考え、一つの念が修煉者の基準に符合しているかどうかに関わっています。同修の間で、お互いに相手の問題を指摘したり、注意を与えたりすることは、当然だと思います。しかし、時には、自分の意見に頑なになって、相手の忠告を受け入れず、他の人の悪いところばかり見て、「あなたもよくでてきていないですよ。どうして私を説教するのですか?」と、内に向かって探さず、はっきり言えば、内に向かって探すこと自体がいやだったのです。本当に危ないところでした。
もちろん、自分はどんな思いで、同修の問題を指摘しているでしょうか? 一つは彼の行なったことが気に入らないのです。自分の要求に符合していなければ指摘します。こうなると、他の人はこちらの話しぶりが嫌いになります。完全に彼のために、善意を持つならば、他の人は自分の言ったことを受け入れ易くなります。
同修がどんな態度を取っても、私達は内に向かって探すべきです。自分に問題があれば、同修は指摘をしてくれますし、たとえ、自分に問題がなくても、自分が向上することになります。このように考えてみれば、私達は同修の忠告を大切にしなけれなりません。誠心誠意に、「ありがとうございます」と同修に感謝をしましょう。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/8/30/141752.html)